ノーノーノーライフ(No Noh,No Life)

能狂言のこと、伝統芸能のこと、観劇レポートなどをかきます。15歳ころ能楽に出逢う。多摩美術大学芸術学科卒。12年間伝統芸能の専用劇場に勤務。スペースオフィスというユニットで能狂言グッズなど作っています。Twitter@ofispace

道成寺、コミュ障の清姫_3

(2の続き)

 

毒蛇となった清姫は、道成寺安珍を探し、這いずり回る。

とうとう清姫は下ろされた鐘に気づき、鐘に七巻き巻きつくと、炎を出した。

安珍と鐘、そして蛇となった清姫自身もともに燃え尽きる。

 

心は、すべてを支配し人を変化させることができる。

相手を想う気持ちは、受け入れられなければその分、自分にはね返りふくれあがるのか。

 

道成寺での事件後、年月が過ぎた。

鐘は障りがあると鐘楼に上げられなかったが、この日はとうとう鐘を上げ再興を祝う日で、女人禁制と言い渡されていた。

しかし過去の事件を知らない道成寺の僧侶は、鐘供養に舞いに来たと言う白拍子(しらびょうし)を調子よく寺に入れてしまう。

 

緊迫した静けさの支配する、鐘の吊られた能舞台で、道成寺の特殊な乱拍子(らんびょうし)は舞われる。

空気を整え、切るのは、小鼓ただ一人の音と息。

シテは、足先を上げ、下げる。そして沈み込み、足を踏む。

 

白拍子は、舞ううちに、思い出す。

愛しい誰かへの、恨みの心。毒蛇になった、自分の心の哀しみ。  

 

鐘が落ちる。 

 

 

 

道成寺を初めて観た中学生時代、いま思えば私はコミュ障だった。

まわりの子たちは、そもそもなぜあんなに明るくおしゃべりできるのか。ほんとうは、私もその輪に違和感なく溶け込みたかった。

だが関係性を気にして敏感になりすぎ、一人でいるのがいちばん楽だった。だから学校の小さい図書室の本はあらかた読んでしまった。

一人に没頭できるなら、本でも、漫画でも、ゲームでも、なんでもよかったのだ。

美術の時間も、絵を描けるし、一人に没頭できるので好きだった。

 

人と楽しくかかわることはこの先もない、と思っていた。

その日、完成した私の絵を見たMは急に近づいて来た。自分は将来も絵を描き続けたいのだ、ときまじめな顔をして、理想の絵の話を始めた。

彼女の絵はその時からうらやましいほど独特ですてきだった。

時間は伸び縮みし始めた。

 

他人がこわかったり腹が立つのは、おそらくそこに自分のかけらが見えないせいもある。

コミュ障で、毒蛇で、月日が経っても過去から逃れられない清姫。そこにも、自分のかけらが潜んでいるのを見つける。

 

 

 

安珍が、もし清姫から逃げず、父を交えて話し合うなり、していたら。

こっぴどく振られた女性が、蛇になることはなかっただろうか。

でもそれもすべて過去の妄想。かなわないから、おのうのシテは、足を踏む。

 

蛇は、龍でもあり、また鬼でもある。

亡霊として能舞台に出てきた清姫は、鱗紋(うろこもん)の着物を中に着ている。これは、鬼が着るものと決まっている。

鐘が上げられ、清姫の亡霊が改めて鬼の姿をあらわにした時、鱗紋の着物もあらわになる。

鱗紋は龍の鱗でもあるが、蛇、鬼も表す。

鬼については、また別に記さねばならない。

 

f:id:kameumi:20180508174746j:image

道成寺縁起(室町時代)のポストカードが引き出しから出てきた。蛇の清姫が炎で鐘を焼き、左は黒こげになった安珍と、それを見つめる微妙な表情の道成寺僧侶。

 

 

白拍子=踊り子の女性、またその踊り。遊女も多い。

※鱗紋様=三角形を組み合わせたデザインの紋様。