面_1
面と書いて、おのうでは「おもて」と読む。仮面とは言わない。
表裏の、おもて、は基本語尾が上がるが、面の、おもて、は語尾が下がる。
面をつける、ではなく「かける」と言う。
つける、は、面を、もの扱いしている。だから違う。そういうことだと思う。
おもてをかける。
面は、それだけでちからを持つ。
ゆるキャラになったことがあった。仕事で、である。それも二回。
奈良の有名なお方と、高野山の有名なお方だ。
奈良のお方は中の人も来ていたのだが、若干閉所恐怖症のきらいがあると不安げで、前日に案の定具合が悪くなった。
身長が低いこととやる気を買われ、交代要員として入ることになった。
奈良のお方は顔が小さい。かなり密着する作りだ。そのため、二酸化炭素がこもり、空気を吸い込むのがなかなか大変だ。もって10分か15分といったところか。
ぼす、ぼす、と歩く足が、柔らかい。視界が狭いので、分厚い布越しに手を引かれながら、自分の輪郭よりひとまわり大きくなった自分で歩いて行く。
すべてが、少し遠い。
まわりの話し声も遠く、でも自分の声は、やけにこもって大きく響く。
向こう側に、世界がある。いろいろな、五感がくっきりとするところ。楽しくて、悲しくて、痛いところ。
でも私はひとり、ぼんやりとした世界に、ひとりでいる。
会場に出て行くと、わっと人に取り囲まれた。
すっぽり分厚い仮面に覆われた顔を動かし、手を振り、握手し、うなづき、写真に写り、しているうちに、酸欠もあったのだろうか、妙に変なテンションになってきた。
私は私でなくなり、奈良のお方として、こうして動いている。
みんな喜んでくれていて、周りは笑顔があふれていた。笑顔は、こちらを見ていた。それはいままで感じたことのない至福だった。
こんなにも、毒が一切ない世界があるのか、と驚愕した。
キャラクターの通り、どんどん少年のような元気さが出て来ていた。写真を撮る合間に、小さく飛んだり、ハイタッチしたりして、リアクションが大げさになる。
中の人は、当時30の女子である。体力はないし運動能力はゼロに近い。なのに何をやっているのか。
自分でも、わけがわからなかった。ただそのキャラクターは、自分だったのだ。
これは、脱いだ後の反動がきつそう、と思ったが、そうでもなかったのが意外だった。
結局30分ほどの間、休憩なしで動いた。
高野山のお方の時は、中の人はいないので雇ってください、という話だった。それならと一度経験もあるため手前味噌で済ませることにした。
高野山のお方は、顔がかなり横に大きかったので、息も楽々、休憩なしでいけるなと思った。
少年僧侶の設定だったので、基本ポーズは合掌。会場に出て、手を振り、握手し、写真を撮り、ぺこり、ぺこりと合掌して見送り、しているうちに、また、どんどん私は私でなくなっていった。
自分が、いなくなる。意識から消える。
それが、ものすごく自然で、純粋な形で、成されている。
キャラクターも毒がないから、まるで毒など知らないかのようになった。
いまでも、半分泣きそうになるくらい、思い出せる。
彼らになっていた間、私はとても、とても楽しかったのだ。
面をかけた能楽師さんの心境は、もちろんこのレベルではないが、やはり面と着物をまとうことで個を忘れ、憑依するに近いのだろうと思う。
その作用は、面にある。それと、着物。
おのうの着物は織などの厚いものもある。四角い、ロボットのような袴などにより、体の輪郭は変わり、本人の要素を無くす。
そこへ最後に面をかける。
顔が、変わるのを、最後の部屋、鏡の間で確認する。
顔というのは、自分を認識する最大のチャームポイントだろう。
それが変わるということは、大きなきっかけになる。
化粧もだが、面は、あらゆる地域で、古くから祭りや儀式で使用されてきたものだ。
面を「おもて」と言う時、もし表裏の「おもて」もかけているとしたら。
能楽師が面をかけた時、表のふだんの顔が消え、裏の顔が表になる。
その時の裏とは、心の奥深く、ふだんは出てこない隠された領域の顔。
普遍的無意識というような深い心の底から、シテのキャラクターはやってきて、面をかけた人の、表に出る。
裏側から、おもてへ出てきた、誰か。
それは自分でもあり、誰か知らない人でもあり、けれど同じ心から出てきているのだとしたら。
面は、とある「一面」も指す。
古くからの作法の為す効果は、現代人にはとてもではないが、はかり知れない。