気の抜けた映画レポート、バーフバリとリメンバーミーの循環について
文化的な衝撃を受けた。
映画「バーフバリ王の帰還(2)」を見た約2時間、いろいろあったので書き残すことにした。
まず文化的な衝撃を食らった、というのは構成が何もかも知っている映画とは違ったからだ。いままで知っている「映画」とは欧米文化であったことを知った。
私は映画オタクではないので素人目線です、映画オタクの方はまたそれなりにいろいろ思うことがあると思います。
まず見た目。美男美女が登場しているわけだが、女性のふくよかないでたちに目を奪われる。
太っているのではない、ふくよかなのだ。それがインドの美人。そして美人は強くもあり、弓矢も得意(もちろんバーフはその上をいく)。
そしてバーフバリたち男性はというと、とにかく分厚い。お腹の鍛えられた肉の厚みがすごい。
美しいとは何か、を考えさせられた。私たちは、踊らされた美を美と思い込んでいないだろうか。
日本人の美とは。
それから、すべてが直接的だった。
王の讃美もものすごい。これでもかとバーフの良さ、格好良さをアピールしてくる。大きな屋台をひとりで移動させたり、象を手なづけて一緒に弓を引いたりと、常軌を逸している。
悪者は、もちろん幼少期からのいろいろがあるけれども悪者になる運命なのであり、対して良者(バーフ)は徹底的に良い人。
また、それぞれの人物のショックを受けた時などの顔面アップ画と、そこに挟まれる「ジャーン」という音楽も非常にわかりやすい。
バーフと家来が嫁候補を探しに旅に出た時、自分の身分を隠しているようすも、ものすごくわざとらしい。
すべてがある種の「型」になっており、ニュアンスというものは存在しなかった。
バーフバリ王の帰還(2)は「生まれ変わって王位につく」という部分が徹底してあった。
二代目バーフバリ王の個人的キャラクターが重要なのかと言うと、そういうわけではない。バーフバリ伝説誕生(1)の主人公がその息子で、村育ちだということを考えるとわかる。
そんなに違う生い立ちなのに、王の子は生まれ変わりであり、当然賢い政治をして国を治めるはず。だから生きなければならないと言う。
その子が迎えに来る時こそ、王の帰還そのものなのだと。
この映画においては「循環」がその世界観を作る重要な要素だった。
日本の古典でいうと文楽では心中物があり、身分違いの男女などが「来世も一緒に」という理由で同時に自殺する。生まれ変わって幸せになろう、と死を選ぶ。
現代では考えられないことだが、それは江戸時代にわりと起きた事件だった。
生まれ変わる。
そんな夢のような話を本心から信じていたのだろうか。
でも愛が本物なら、来世で生まれ変わっても会えると信じて死んだのだ。
バーフバリにしても、みんなそんなに王の子に期待して、もし悪い心で育ってしまったらどうするのか。
でもそれらの心配は1ミリも挟まれない。それが物語ということかも知れない。
ついでに直近で見たディズニー映画「リメンバー・ミー」は今回スペインが舞台。スペインの死生観が描かれた。
それは肖像写真を祭壇に飾っておけば、死者の日にこちらに戻って来られるというもの。
逆に言うと、死者の国で死者は生きている。そして死者は自分を覚えている人がいなくなった時に「ほんとうの死」を迎え、消え去るという。
それは日本にも存在する考えだ。
死んでからもあちらに国があり、存在できる。それもまた夢のような話だが、あったら素直に嬉しい。
向こうで会おう、とよくお葬式で聞くフレーズだけれど、本当なのかも知れないと思うとちょっと違って聴こえてくる。
この二作品で、現代の、自分の、「死」に対するイメージの貧弱さを思い知った。
またバーフバリに大興奮だったことを考えると、古典の「型」というものにまだまだ魅力が詰まっていると思わざるを得ない。
バーフバリの物語は、マハーバーラタにインスピレーションを受けたという。
マハーバーラタ(バラタ族の物語)といえばインドの長編王朝物語で、登場人物が出すぎて名前もインド名だし途中で挫折すること間違いなしの壮大な古典。
古典すぎる古典からこのような「現代の格好良い作品」が生まれたというのはとても興味深い。
もしかしたら現代は、「死」だけでなく「生」も貧弱になっているのかも知れない。それは、物語の貧弱さに比例するのだろうか。
やはり古典を知っていきたいと思った。