ノーノーノーライフ(No Noh,No Life)

能狂言のこと、伝統芸能のこと、観劇レポートなどをかきます。15歳ころ能楽に出逢う。多摩美術大学芸術学科卒。12年間伝統芸能の専用劇場に勤務。スペースオフィスというユニットで能狂言グッズなど作っています。Twitter@ofispace

松風、双子姉妹の心のゆくえ

妹がひとりいる。隣の駅に住んでいて徒歩圏内なのだが年に一度くらいしか会わない。仲が悪いわけではなく、むしろ良い方だと思う。

彼女はどこまでも平等で、典型的な丑年生まれのため、亥年の私をのんびりかわしてくれる。

 

妹の存在とは別に、双子に生まれたかった、と強く思っていた頃があった。小学生の頃だった。

ケストナーの『ふたりのロッテ』は大好きだったし、秋元奈美の漫画『ミラクル☆ガールズ』(双子の姉妹が様々な事件を超能力で解決していく)は羨望の的だった。

なぜ双子になりたかったか。それは自分を深く理解してくれ、またこちらも相手を深く理解できる、そういう無二の相棒が欲しかったからに他ならない。

人間が無理なら、と、ジブリ映画「魔女の宅急便」の黒猫ジジのように、しゃべることができる能力の高い動物の相棒はできないものかと日々、学校帰りに野良猫を見つめていたこともある。あるいは、カラスの時もあった。 

残念ながら、彼らはしゃべりかけてはくれなかった。こちらがもっとしゃべりかけたら何か違っただろうか。

 

妹は、残念ながら2歳下の妹であって相棒ではなかった。妹らしく私の行動を観察して要領よく過ごしていたし妹らしい甘えもある。

だが妹は私を「お姉ちゃん」と呼んだことは一度もない。

中学生くらいの頃からは、下の名前で「◯◯さん」とお互いを呼ぶ。

無意識に距離を取ろうとしたのかどうかは、わからない。ただそれは自然に発生し、またいちばんしっくりきた。

そして私の強い双子願望は、その「◯◯さん」と呼び合うようになった頃から無くなっていった。

 

 

おのうの「松風」は、松風と村雨という海人の姉妹の物語だ。

姉妹と言ってはいるが、このふたりは双子ではないかと思っている。

理由は、心理的にぴったりと寄り添い、同じ在原行平を恋人としていたことだ。

姉妹で同じ彼氏がいるというのは、まあふつうでは考えられないことだが、この姉妹がふたりでひとりの一心同体という関係性であった、と考えると納得はいく。

双子は、外の者が決して入り込めないふたりだけの世界を形作る。

そして名前のとおりに、どちらかというと自然界を拠り所に生きたのだろう。

けれど、死んでなおも行平への恋心はふたりを悩ませる(これも、ふたりとも全く同じ状態にある)。

旅僧が松風村雨の旧跡である松を弔ったため霊として現れ、僧が行平の歌と、松風村雨の名を言った途端、ふたりは泣き出す。

  

恋わずらいの悩みを語った後、行平の残した烏帽子と服を、姉の松風がまとう。

松風は少し狂乱し、(おのうでは過去の恋人の服をまとうと狂う、というのは定番になっている。)ああ行平さまが私を呼んでいる、と松の木にふらふら向かって行く。

ここで村雨が、ばっと手を出して松風を止める。

 

あれは松です。行平さまは、もういません。

 

それまでふたりでひとりだった松風村雨は、この瞬間、行平をどうしてもどうしても求めて止まない松風の心と、いいえあれは松、行平さまは死んだ、と現実を突きつける村雨の心とに分かれた。

私はその時なぜか泣いていた。

人の心とはいつもそういうもの、と言われた気がした。 

引っ張り合う磁石のように、ひっかけ合った鈎のように、がっちりと組んで離れないそれは陰と陽で、ひとりの心のうちに住まい、反対を向きながら、それでいてひとつ。

そしてこの姉妹は何度でも現れて、この場面を繰り返す。

それは、ひとの心のならいだから。

 

私が求めた相棒はきっと、松風や村雨でもあり、行平でもあった。

 

心理学的な「解説」もできるだろうが、ひとの心に直接投げ込まれ影響を与えるのは、芸術でしかない。

世阿弥がこの作品を生み出してくれたことを感謝している。

 

 

エーリヒ・ケストナーふたりのロッテ岩波少年文庫、2006年(初版1949年)

秋元奈美ミラクル☆ガールズ講談社、1991年