ノーノーノーライフ(No Noh,No Life)

能狂言のこと、伝統芸能のこと、観劇レポートなどをかきます。15歳ころ能楽に出逢う。多摩美術大学芸術学科卒。12年間伝統芸能の専用劇場に勤務。スペースオフィスというユニットで能狂言グッズなど作っています。Twitter@ofispace

絃上、最強の音楽オタクの集い

梅雨入りした。梅雨らしい雨が、しとしと降ったり止んだりしている。

気候変動でスコールのような土砂降りの雨が増えたのは気のせいではないだろう。ああいう雨は、不安になり、早く止んでくれと願うだけ。

しとしとの雨は、アンニュイな気分になり、いつまでもふとんの中にまどろんでいたいと思わせる。

 

このしとしとぴっちゃん、の人を内向的にするような雨は日本人の心に住んできた。おのうの「絃上(げんじょう)」 の場面を思い出してもそう思う。

「絃上」は場面がどんどん変わり何段階にもおもしろみが増していくゆかいな曲だが、前場で雨の印象的なシーンがある。

 

 

太政大臣藤原師長(もろなが)という天下に隠れなき琵琶の名手がいた。

 

おのうの物語のきっかけになるのは「ワキ」と言われる役で、最初に登場し名乗りどこにいるかを言い、また彼が来ることで怨霊や精霊はざわざわしてしまい、過去を思い出してふらふらと出てくることが多い。

ワキはたいてい僧侶であるが、「絃上」ではその進行役は師長。しかもそれは、音楽への熱い想いに始まる。

彼はもう琵琶の本場に行くしかおのれの才能を活かす道はない…と決心。 唐の国に渡ろうと須磨の浦に向かう。

 

須磨の浦で夜になり、一夜の宿を乞うた先は、老夫婦の家。

師長は、宿のお礼に琵琶を奏でる。と、そこに夜雨が降ってきたので、琵琶をやめてしまった。

老翁は、なぜやめるのですか、と師長に言う。

そして姥とふたりで苫(とま、すげや茅で編んだ船や小屋を覆い雨を防ぐもの)を屋根にふき、耳をそばだてて雨音を聞き始める。

いまの琵琶の調子は黄鐘(おうしき)、板屋をたたく雨の音は盤渉(ばんしき)だったので、苫で調子を整えました、と老翁はさらりと言う。

 

(黄鐘、盤渉などの調子とは雅楽の音楽原理が元になっている、西洋音楽でいう◯長調、◯短調のようなことで、黄鐘の音を主音とするのを黄鐘調と言う、盤渉もしかり。ちなみに六調子あり、黄鐘はドレミでいうラ音、盤渉はシ音に近いらしい。)

 

あなた方は常人(ただびと)ではないと思っていたと師長は言う。

おそらく音楽を深く愛し極めてきた「同類のにおい」を、彼は嗅ぎ取ったにちがいない。

この3人は…おそらく人があきれ返るほどの「音楽オタク」である。

 

そして絶対音感を持った稀有な老翁は琵琶を、姥は琴を、手にとり奏でる。 

師長はその素晴らしい音色に感動して涙し、この国での琵琶は極めた、などと思い渡唐するなど浅はかだった、と都へ帰ろうとする(人の演奏途中に急に出て行くあたり、熱いオタクの様子が伝わって来る)。

老夫婦は最初師長が出て行ったことに気づかず演奏に没頭しているのだが(それもどうかと思うがオタクだから仕方ない)、気づいてもちろん師長を止める。

そして実は師長の渡唐を止めるために現れた村上天皇と、梨壼女御(なしつぼのにょうご)だと身を明かすのである。正確には、ふたりは幽霊であった。

 

 

後場村上天皇は本来の姿で再登場する。

父・醍醐天皇の時代、村上天皇は唐国から琵琶を渡されていた。

絃上、青山(せいざん)、獅子丸(ししまる)の3面(琵琶は面と数える)。

そのうち獅子丸が、渡航の時であろうか、龍神に取られていた。

それをいま召し出して弾かせてあげよう、と天皇は魔法使いのように龍神に「獅子丸を持って参れ」と命ずる。

その後は、村上天皇と師長と龍神(八大龍馬)たちの、夢のような海上音楽会である。

 

 

師長の従者は、老夫婦に師長を紹介する際、彼が神泉苑で琵琶の秘曲を奏した時のことを語っている。

師長が琵琶を弾くと、晴れていた空があれよと曇り大雨が終日降った。龍神も師長の琵琶を誉めたのだろう。そのため師長を雨の大臣(おとど)と呼ぶようになった、と。

 

龍神は、水をつかさどる神とされる。そのため雨と龍神を結んだ。

神泉苑で演奏した時から師長は龍神に好かれていたようである。だからきっと龍神は、あいつなら、と獅子丸をすんなり渡したのだ。

そして村上天皇は「同類のにおい」を嗅ぎ取り天から師長を見守っていて、きっと全てを知っていた。

琵琶と雨の関係はよくわからないが、楽器で雨を呼ぶということは神がかった奏者には伝説としてよくある話のようにも思う。

雅楽で使う笛は、龍笛(りゅうてき)と呼ぶ。龍の声に似ているからとも言われる。あるいは雨を呼んだとも。

龍神は、音楽全般をこよなく愛していると考えるのが自然だろう。

  

音楽。多人数での演奏を思い描きがちだが、かつては一点に、楽器に集中していくような室内楽を主とし内向させるものでもあったことは、雨の老夫婦の家で一音一音を聴かせる師長を想像するに難くない。

弾き語りなどは、こういったところから起こったのだろう。

しかし「絃上」のラスト、龍神たちとともに奏でたのは世界へ発散していく音楽だった。海は音楽とともにうねり、生者も死者も神も、音を楽しむことに尽きた。

最強の「音楽オタク」が集ったのだ。

そこに境界はない。 

 

好きであれば、「オタク」であれば、世界と友だちになれる、というのは「絃上」が力強く証明してくれている気がする。

 

 

※ ちなみに琵琶の絃上は「今昔物語」に書かれており、羅生門の鬼に絃上が取られたのを源博雅が取り戻した話がある。下手に弾けば腹を立てて鳴らず、内裏の火事の際にも自分で出てきて庭にいた。最近だと夢枕獏氏の「陰陽師 安倍晴明」で描かれた。

※ 「オタク」という語は私はすべて尊敬を込めて発しています。