ノーノーノーライフ(No Noh,No Life)

能狂言のこと、伝統芸能のこと、観劇レポートなどをかきます。15歳ころ能楽に出逢う。多摩美術大学芸術学科卒。12年間伝統芸能の専用劇場に勤務。スペースオフィスというユニットで能狂言グッズなど作っています。Twitter@ofispace

杜若、業平という紫色をまとったアイドル

友人の結婚式が近いので袱紗(ふくさ)の確認をしていたところ、紫色の袱紗は、慶弔どちらにも使えるという。

他の色の袱紗は主に暖色系が慶事、寒色系が弔事と配分されていて、片方のシーンでしか使えない。

紫は、紫草の根で染めた色という意味で紫と呼ばれたそうだ。かつては希少だったことから高貴な色とされた。

聖徳太子の頃、官位十二階の最高位は紫色であったし、『源氏物語』で幼少の頃から描かれ、源氏の君の最愛の妻とも言える「紫の上」は名が紫である。

希少だった紫が貴重なものとされ、それに付随して「高貴な色」というイメージが定着していったと思うが、では希少性のみでイメージが後付けされたのかと問われると、難しいところだと思う。

 

落ち着きを備えた、赤でも青でもない色。暖色と寒色のあいだ。

絵の具で紫を作るには、原色の赤と青を混ぜる。

 

妙齢の女性が紫の着物を着たらとても素敵なのは、やはり色の為せる技だろうし、私のような若輩者には着こなせない色だ。

結婚式の花嫁の色は、ドレスであろうと着物であろうと白が基調である。そして一方、喪に服すのは黒と決まっている。

色は、人生と感情に寄り添う。

また色をまとうことで個人の存在を「象徴」とする働きがある。

 

レンジャー系や少女アニメの戦隊モノの「チーム内の色分け」は象徴でもあり、性格をも表し、現在では現実のアイドルにまで波及している。

日本人はそうした象徴として使う色が好きなのか、は、よくわからない。

 

おのうの「杜若(かきつばた)」の精霊は、在原業平を偲んで彼の衣装をまとう。

その時々のシテの装束は、もちろん能楽師さんのセンスに任されてはいるが、杜若ではほぼ紫の長絹を着る。

それは三河の国八橋に咲く一面の杜若の風景を喚起させ、また業平の高貴さをも表す。

すべての装飾を抑えに抑えた能舞台で、唯一色味の主張があるのはシテの美しい能装束である。

 

「杜若」 の精霊は女とされていて、花といえば女性を想起させるのは常なのだが、男性であったとしてもいいのになと思う。

彼女の業平への思慕は、完全に現代人の〝推しアイドル〟への思慕と変わらない。そしてそれはいまの時代、男女関係ない。

業平は、歌舞の菩薩であったと杜若の精は言う。そのちからで、私たち草木さえも成仏させてくれたのである、と。

 

ここで確信するのは、現代のアイドルもまた歌舞の菩薩であるということだ。

アイドルもまた「歌舞」でファンを魅了し、虜にし、最終的にはファンをライブで成仏させているような人々であるのは、推しアイドルを持つ者であれば皆、首を大きく縦に振るに違いない。

巨大なライブ会場の全員を成仏させるちからを持つ。

それがアイドルであり、菩薩並みの象徴的なちからを携えている。

私は残念ながらいまのところ推しアイドルを持たないのだが、友人たちを見ていて、杜若の精と同じだと確かに思う。

歌の種類は変われど、舞の形態は変われど、歌舞の菩薩は現代にもたくさん生きて活動しているのだ。

 

そして、コスプレをしてアイドルと同じ象徴になろうとするのも、「杜若」と同じ現象だろう。 

業平さまの服をまとって、業平さまに近づきたい。

紫色をまとって、冠を被り、死んだ彼に近づこうとする杜若の精はあまりにもいじらしい。 

紫という色が、もしかしたら杜若の花と業平を結びつけていたのかもしれない。

業平が、幽霊でもいいのでライブでもしてくれたら、世界中の花々が叫びながら成仏するのではないかしらと妄想するこの頃である。