ノーノーノーライフ(No Noh,No Life)

能狂言のこと、伝統芸能のこと、観劇レポートなどをかきます。15歳ころ能楽に出逢う。多摩美術大学芸術学科卒。12年間伝統芸能の専用劇場に勤務。スペースオフィスというユニットで能狂言グッズなど作っています。Twitter@ofispace

物狂い_1

やっと宇多田ヒカルのアルバム「初恋」を手に入れたのだが、「パクチーパクパク」が頭から離れない。タイトルはそのまま「パクチーの唄」。

最初聞いたときは、「えっパクチーパクパク? 狂ってる」と思い、二度目に聞いたときは、「いやそうでもないか、ふつうの歌ではないっていう『ふつうの歌』という概念がおかしいのか」などと思い、三度目に聞いたときには「いい歌だ」などと思った。

宇多田ヒカルの曲調はいつも死にそうに切ないところにあるため突然、日常のほんわりしたことをほんわりした曲調で歌われて驚いただけかもしれない。(中でも「初恋」と「夕凪」の繊細さは息苦しくなるくらいだった。)

 

狂っている、というのはいつも周りが思うことで本人はあずかり知らぬことであろう。

そして瞬間的にパクチーパクパクをちょっと狂気を帯びていると思ってしまったのだが、それは自分の浅薄さから来るものが大きいのではないか、とも思った。

この人の範囲、イメージ、目指しているもの、表現したいことは、こういうことであろうと無意識のうちに勝手に決めつけている。

でもそんなところに収まる人間はいない。そしてアーティストはそんなことを考えもしない。

 

だいたい、狂っていると決める人こそが狂っていないと言えるのか。そういうようなことを考え出したら、おのうでずっと気になっている「物狂い」のことが頭をもたげてきた。

物狂い能、狂女物、狂乱物などとも言われる「狂った人が主人公の曲」というくくりがおのうにはある。「高野物狂(こうやものぐるい)」「賀茂物狂」などわかりやすくタイトルについていたりもする。

いちジャンルといえるほどの物狂いオンパレードを、どう考えてよいのかわからずに悩んだ時期があった。

(もちろんここに書くのは思いつきであって何の研究でもない。) 

 

 

金春國雄という太鼓方金春流の人が書いた『能への誘い』という本の中で、「物狂い能」は次のように表されている。

 

ーー猿楽の本姿であった追儺(ついな、鬼や魔を祓うこと)と祈禱の宗教行事を元とする神がかりと狂いがこの能にのこって、代表名となったといわれている。

 狂気は、人間の哀しみや苦しみの極限状態における異常な心理が、ある刺激を受けることによっての突然の錯乱、もしくは恋慕・思慕そして嫉妬の激情の爆発によって起こり、すべての制約からみずからを解放してしまう。明らかに一種の神がかりの状態であり、精神的破綻であり、魂の恍惚境の彷徨なのである。(前掲書「五つの要素ー五番立ての意味」)ーー

 

ここでは、興福寺でいまも行われている呪師走りのような、追儺系の儀式を行うのが猿楽師の技の本質であったということを言っているが、猿楽師の追儺や呪師走りについて詳しいことは伝わっていないらしい。

いまも行われる二月堂のお水取りも追儺で、そこでは僧がお堂の中をどんどん走り「走って一種神がかりの状態になる」ということでは呪師走り(「走り」と言っているくらいなので)とも近いものだったのかもしれない。

 

おそらくただの人間のままでは鬼や魔者にはとうてい敵わない。それらを祓うためのちからを得る必要があったはずで、そこで若干にせよ神がかりという要素がおそらくあった。

 

神がかり、というと現代で思い描かれるのは、ベテランといったふうのイタコや巫女などが儀式で神降ろしをして、うなったり変な声音で喋って宣託をしたり、というようなイメージであろうか。

けれどそれはある一種の形であり「神がかり」にも様々な形があるだろう。

 

 

(2に続く)