ノーノーノーライフ(No Noh,No Life)

能狂言のこと、伝統芸能のこと、観劇レポートなどをかきます。15歳ころ能楽に出逢う。多摩美術大学芸術学科卒。12年間伝統芸能の専用劇場に勤務。スペースオフィスというユニットで能狂言グッズなど作っています。Twitter@ofispace

コスプレと杜若の精_1

10月も末の頃、初めてコスプレをしてネズミ王国を歩いた。

ネズミ王国とは千葉県浦安市の遠浅を埋め立てて作られた海沿いにあるエンタテインメント施設のことで、個人的に日本のそこは半分宗教がかってきているなあと思うのでそう呼んでいる。批判者ではなくむしろ同い年で、共に生きてきた仲である。

 

そこはいつからかハロウィン期間にコスプレ可能となり、期間中の土日祝日は入場規制がかかるほどとなった。

 

私は『不思議の国のアリス』の衣装をひととおり持っていた。

原作のファンでもあり、アニメ映画だと垂れそうなバターを羽に有したバタパンの蝶などがなぜかとても好みだ。どこまで食べれるのだろうと子ども心に思ったのを覚えている。

いつだか理由なくふと通販で衣装セットを購入し、靴は合いそうなものを別のところで揃えた。

コスプレをしたい理由は、今回については完全に自己満足のためだった。

 

コスプレというと、インスタに上げるネタとか承認欲求とか日常が不満なのだとか。外の人は様々に理由を求め、その通りであったり違ったりするだろうが、主にはみんな目に見えてわかりやすい変化を求める行為として着ているような気がしている。

私の場合はそのわかりやすい変化を求めたのもあるが、自己満足のためにたぶんこれを着たら、心のうちの何かが少し満たされる気がした。

と同時に自分が楽しいだろうなと思った。この自分で自分を楽しませる、ということがいまの自分にはおそらく重要だった。

いやでも生きている限りずっと一緒にいた自分から、違う人間になって少し離れたかったのもあると思う。

 

 

ネズミ王国にはコスプレするための着替えブースが男女別室でちゃんと用意されており、入ると圧倒された。

ウィッグをつけ髪の色がさまざまな女の子たち、ふわふわのしっぽがついていたり耳がついていたり現実離れしていて、みんな一所懸命にキーキー喋りながら化粧をしている。

カラフルで色とりどりで、場末のサーカス裏のような感じ。

そして何より、これからこの格好であたしは外を闊歩し楽しむのよ!(勝手ながらそこにいる全員、わたし、ではなく「あたし」という言葉がぴったりな子たちだった)という期待や自信、わくわくした気持ちに満ちていた。

 

私も楽しもう、とその空気に押されて着替え、外に出る。

着替えたからといって別段なにもないのだが、この衣装を着ている限りは『不思議の国のアリス』の、一員のような、…いやいや現実なのだが、まあいいか、楽しもう、私は私でなくてもいいのだ今日は…というような変に前向きな気持ちになる。

好きなものに触れ続けることができる、という意味でコスプレは便利なツールだなと至極納得した。

 

そしておそらくは、コスプレは物語の登場人物と同化したいという望みでもあるということ。

 

ネズミ王国が作る物語は、たいていハッピーエンドで終わる。紆余曲折の末に主人公にはハッピーが訪れる。

そのことを、映画やアニメを見てすでに知っている。

だから安心して主人公になりたいと思える。

現実はそうはいかない。自分という主人公が、ハッピーエンドの物語を歩いているとはなかなか思えない。

 

 

コスプレが何を意味するか。

お能の「杜若(かきつばた)」のシテであり、愛する在原業平(ありわらのなりひら)の装束をまとった杜若の精のことを以前ちらっと書いた。

杜若の精は、愛する業平を偲んで業平の装束を身にまとう。

 

つまりは、好きすぎてそのものになろうとする行為、あるいはいなくなった者を呼び戻そうとする行為などがもともとなのだろう。

 

学校で、たいていの子が触れることになる「唐衣着つつなれにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ(句頭がカキツバタ)」の有名な和歌を詠んだのが在原業平

いつかの昔、杜若の花を見つめこの歌を詠んだ業平。その業平の死後も、杜若の花の精は彼を忘れることはなかった。 

彼女は業平のことを歌舞の菩薩だったのだ、と言っているのだが、それは好きが高じて崇めていった結果、例えば今で言う「推し(ファンが高じたオタクが、大好きなアイドルなどの対象を言う言葉)」を神のように扱うのと同じ現象のように私は思っている。

あるいは昔の方が自然と近かったために、神がかっていたり尊い化身だったりする人間はわりとたくさんいたのかもしれない。

 

(2に続く)