ノーノーノーライフ(No Noh,No Life)

能狂言のこと、伝統芸能のこと、観劇レポートなどをかきます。15歳ころ能楽に出逢う。多摩美術大学芸術学科卒。12年間伝統芸能の専用劇場に勤務。スペースオフィスというユニットで能狂言グッズなど作っています。Twitter@ofispace

コスプレと杜若の精_2

(1からの続き)

 

身にまとうということ。

原始のおそらくは暖を取るなどの必須アイテムという位置付けから、はるか時は過ぎ人間に自我が芽生えて、あるいは自我が膨らんで以降であろうか。身にまとうという行為で社会の立場や所属も表すようになり、まとうものを工夫もし、自分を表現する行為と変化してきた。

自分を表現する、そのことの難しさ。

身にまとうものを考え悩むことは、おそらく自分のことを考え悩むことと等しい。

自分が望んでいる何かは、一体身にまとうことで成就されるのだろうか?

私が幼いころ『不思議の国のアリス』に憧れと現実離れした奇妙な感覚を抱いて、でも行ってみたい世界だと思っていたのは確かなのだけれど。 

  

 

杜若の精の恋心は切なるもので、その真剣さには圧倒されるものがある。

恋も、また願望のひとつの形でもある。あるいは、空いた穴を埋められると無意識が期待するのかもしれない。相手もまたしかり。

それを文字どおり無意識の内にパズルがはまるかもしれないと読み取っているのか、逃れられない運命だったのかは人間にはわからない。

杜若の精は心がおさまらず業平の装束を身にまとった。 

そして本人は意図せずに自分を表現することになったということだろうか。杜若の精の心に業平が欠けていたのは、装束をまとった彼女を見れば明らかだ。

何かになりたいという憧れ。他の誰かになりたいというねじれた願望。 

でもそういう願いがあると自分自身が知ることができれば、人の心は成長もするのだろうと思う。

 

杜若の精は舞を舞い、ラストの謡「すはや今こそ草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)の御法(みのり)を得てこそ失せにけれ」で消えてしまう。

草木国土悉皆成仏とは、草木や国土までも皆ことごとく成仏してしまうという仏教思想で、草木である杜若の精もそのありがたい教えのおかげで成仏したということのよう。それも業平が歌舞の菩薩の化身で、あんな素晴らしいカキツバタの歌を残したりしたかららしい。

 

業平の装束を身にまとい彼の歌を口ずさんで舞を舞った彼女は、何を得たのか。

もちろんカキツバタの和歌だけでは穴を埋められなかったから、業平の装束を着て出てきた。

彼女が自分の内に足りなくて欲していたものとは。恋人か、和歌を通した文学か、歌舞菩薩か、愛する業平そのものか、それともただ美しく咲く儚い満開の杜若のかつての一面紫の風景だったのか…いずれでも有り得るし、いずれでも有り得ない。

(それはお能の「杜若」を観るたびに各人が考え、発見していくことでもあるのだろう。) 

思えばお能のシテはみな大方が心の穴を埋められず苦しんでいるのだなと思うと、現代は手軽に色々変身できる一方で苦しみを知らん振りして何ら変わっていないのかもしれない。

けれどコスプレがきっかけとなって杜若の精は成仏というひとつの変化を得た。

 

いつかの昔この能ができて、杜若の精は業平とともに舞を舞った。

それは人の心の内に刻まれて消えなかった古典の物語を、再興し、その時代の(業平の『伊勢物語』の時代は能楽の作られた時すでに〝昔〟になっていた)人々が改めて享受し発見できる物語、能楽に作り直したということだ。

古典を享受したかったけれど、そのままでは足りなかっただろうか。

足りず、欲し、あがき、新しく発見する。その過程はきっと変わっていない。

 

コスプレし成仏する杜若の精、それをながめる私たちもまた繰り返し心の内にある穴を見つける。

みんなが自分の心の穴になんとなく気づき、穴を埋めるものを探し、ハロウィンという時期にだけ無意識に許され変化しようとするのかもしれなかった。

ニュースで見たあの日の渋谷の様子は、集った人々の心の穴が深いような気がするだけで何も言う気はないのだが、とにかく急激な社会の変化には心を失うことも多く、誰もが苦しみ、手っ取り早く自分とは違う存在になりたくもなるのだろう。

けれど昔の人もまた同じように心の穴に苦しみ、コスプレをして、変化を成し遂げていったということを「杜若」を観ながら改めて考えてみてもいいかもしれないと思った。