ノーノーノーライフ(No Noh,No Life)

能狂言のこと、伝統芸能のこと、観劇レポートなどをかきます。15歳ころ能楽に出逢う。多摩美術大学芸術学科卒。12年間伝統芸能の専用劇場に勤務。スペースオフィスというユニットで能狂言グッズなど作っています。Twitter@ofispace

祖母と島の記憶など

祖母が亡くなった。

前々日からものすごい睡魔におそわれていた。生理? ではない。

前日は、あまりに眠すぎたのと家での作業中だったため仮眠しようと横になったら2時間も眠っていた。まだ眠かった。

夢を見たが、映像がちらちらと残るだけで起きると消えてしまった。

最期の祖母とコロナで会うこともなく、お通夜と、お葬式の日まで睡魔は続き、そして消えた。

 

亡くなったと聞いた日、少し泣いた。昼休みのことだった。

 

祖母は瀬戸内海の小さな小さな島、それも島内一おそらくお金持ちだった家に、長女として生まれた。

けれど祖父と駆け落ち(と言っても島内なのだからすぐバレるのに…)同然に結婚、祖父の家はそんなにお金持ちではなく、祖母は若い頃に相当苦労したらしいことを聞いた。

「おばあちゃん」という人に、そんな激烈な若い頃があった、と孫には想像しにくい。

でもおばあちゃんはいつも楽しそうで冗談を言い続けるはつらつとした人だった。

博打ばかりで働かなかった祖父も途中から漁業共同組合に入りまじめに読み書きを勉強し、

ヤクザばりにこわくて声がものすごくでかく誰に対しても悪いことは悪いと怒ることから組合長にまでなった。

(いや、まっすぐすぎて不正など絶対にしない人だから投票で島民に選ばれたのだった。)

たまに出てしまう声のでかさは、どこか遺伝している(低い鼻も)という自覚はある。

 

おばあちゃんの底抜けのゆかいさを、どう表現したらいいのかわからない。

とにかくずっと冗談めいたことを言っていたような気がする。少しボケてきてからもそのトーンが変わらなかった。

反面、ものすごく暗い部分もあった。感情に支配されがちなのは、その時代の人として仕方なかったと思う。

 

祖母からは不思議な話を二つ聞いた。

一つは、戦時中、この島の、家の前の海岸に、日本軍の軍艦が打ち寄せられ、

そこへアメリカ軍の爆撃機が銃弾を振りまいたという。

何人もの人が死に、血を流し、必死で救出したのだと話す。

祖母はまだ子どもだっただろうから、その時の大人が助けたのだろう。

家の前の海を前に話すおばあちゃんの異様なさまは忘れられない。

興奮して喋っているというよりは、目の前に「それ」を見て喋っている、と思った。

そういうリアリティのある戦争の話を、聞いた私はたしか小学生だった。

後年島の歴史を調べると実際には家の前の浜ではなく、離れた場所だったが、話してくれた内容通り銃弾が降った。

祖母にとっては自分の家の前で起きたくらい衝撃的なことだったのだろう。

 

もう一つは、祖父が死んだあとのことで、夕食後に始まった話だ。

この島には最初7人の男が流れて来て、住むようになったという。

その7人の名前が、建て替え時に解体した実家の柱に刻まれてあったのだ、という話だった。

島は江戸時代に藩のお茶屋として機能しており、参勤交代で瀬戸内海を渡ってゆく大名たちが休む場所だった。潮の流れもちょうど船が停めやすいためこの島が選ばれたらしい。

なので江戸時代よりもっと前に島には島民がいたと考えると、実家がそんなに古いままのわけはないのだが、祖母の話だと柱に刻まれた名前を見たとのことだった。

その7人の名前をメモしたのに、手帳をどこかへやってしまった。

たしかに祖母の実家は島でも一番津波の被害がこない、湾の奥まった内側にあった。

 

島の人々は自分たちが皆、平家の末裔だと信じていた。過去私達の祖先は武士だったのだ、と、少し誇らしげに話す祖母の声をよくわからずに聞いていた。

漁師や農家のほうが、よっぽどえらいと思うけどな。

という言葉を仕舞って、ふんふんうなずいていた。私は島では孫ではあるが余所者で、これは余所者が口を出すことではないと感じていた。

そういったことはたくさんあった。私は島の人々の生き方も苦労も知らない、夏休みの2週間だけ来る無邪気な孫だった。

思春期になってから、自分の扱われかたにときどき疑問を抱くようになった。

長女だから、とよく言われたが妹とは2つしか違わなかった。

そして私自身ではなく長男長女という身分でものごとを進めてきた日本社会の当然も、それに追いつかないどころか逆行し始めた時代の流れも、ふわりと感じた。

あまり痛みをともなっていないぶん、私はよかったのだと思う。

枠組み、仕組み。当然のこと、当然じゃないこと。それは共同体の思い込みに始まるのだと思うが、四季と信仰があったからでもあろう。

人間は臆病者だし、いつ裏切られるかわからないから、そうして枠に縛らなければ安心できなかったということもあろう。

崩壊と建設はおそらく同時に始まる、と信じたい。

 

とことん平和だった島に、イノシシが出たのは私が中学生の時で、「泳いできたんじゃ」と祖母は言い張った。

泳いで向こうの島から島へ渡るなんて無理よと言っていたら海上保安庁が泳いで島を渡る途中のイノシシを激写していた。

この島にはもうたくさんのイノシシが住んでいて、毎年猟師を呼んで討伐に行くのだがなぜか一度も仕留めたためしがない。

自転車で約40分ほどの島一周も容易に行けなくなってしまった。

祖父や祖母は無念かもしれないけれど、いつかこの島がイノシシに席巻され人間が追い出されるならそれも時代の流れと思うように、私は、している。

太陽を浴びてちらちらと輝く海面の、すぐ上にかかる一周道路のすぐ横を、トンビが優雅に風に乗って飛び、それと競争しようと自転車を一生懸命走らせた、あの頃もあの島ももう二度と戻らない。

そんなことがあるわけないと信じていた。祖父と祖母がいなくなるなんて考えたことはなかった。

ひとつだけ変わらないことは、行っていたころも、行けなくなってからも、島は私の憧れの地であるということだけだ。