ノーノーノーライフ(No Noh,No Life)

能狂言のこと、伝統芸能のこと、観劇レポートなどをかきます。15歳ころ能楽に出逢う。多摩美術大学芸術学科卒。12年間伝統芸能の専用劇場に勤務。スペースオフィスというユニットで能狂言グッズなど作っています。Twitter@ofispace

すべての女性はきっと桜姫【木ノ下歌舞伎・桜姫東文章】

【木ノ下歌舞伎・桜姫東文章】2/3 @あうるすぽっと

舞台レビュー、思うまま書いたので要領を得ない散文です。ネタバレあり。

 

 

最初の桜姫と権助の濡れ場で、左脇にスポットを浴びて立つ髪の長い女の子が、あれ、退かないのかな、ちょっと邪魔だなと思いました。

岡田作品は前回2021年「未練の幽霊と怪物ー挫波・敦賀」をKAATで初めて見て衝撃を受けた。その時もだったが、みな変な繰り返しのうごきをしている。

チュッパチャップス的な棒アメをくわえて白いミニバッグをだらんと持ち、タイダイシャツにジーンズで、フラフラ揺れる、髪の長い女の子。

完全に、空気読んでない感じ。この舞台やストーリー上に1人だけなじんでいない。その後も、位置的にも、その子だけがなじんでいない感じは続く。

間違えちゃったのかな、と思う。間違えて、2人と同じ台の上に乗っちゃった?と、心配になる。


話は色々とんで、劇中、桜姫以外に登場する女の子は、これでもかと理不尽な目にあい続ける。桜姫の代わりに。

桜姫の代わりに、いいなずけに無罪で殺され、首を桜姫といつわられる(歌舞伎あるあるの親類縁者を首代わりにして忠義を示すやつ)。

桜姫の代わりに、子を預けられ、女郎屋に売り飛ばされる(歌舞伎あるある女郎にすぐ売り飛ばすやつ)。

桜姫の代わりに。桜姫。桜姫って、だれ?


この物語の主人公は、桜姫という女性。

姫の身分、だけど前世の因果で左手が開かず、そのため嫁ぎ先がなく、出家を決めるも、強盗に強姦され愛欲におぼれた日を忘れられず、出家直前に強盗に再会してまた我を忘れる。果ては非人に落ちぶれさまよい、再会した好きな男に売られて女衒で働くことになる桜姫。


桜姫は最後に、愛する彼権助が、お家没落のきっかけとなった家の宝を奪った仇と知り、自分で殺す。同じ入れ墨を掘るほどに惚れていた男を、刀で刺し殺す。

前にすれば母性を見せていた彼との間の自分の赤子も、刀で殺す。

桜姫は象徴的な権助と赤子を殺すことで、やっと、自分の意思を手にしたように見えた。恋とか、女とか、母とか、そういったもの、自分とは関係なく押し付けられてきた女性というものの、象徴。


桜姫をめぐるありとあらゆる扱いや境遇はすべて、桜姫の意思とは無関係だった。生まれすら、清玄の元恋人・白菊の生まれかわりと言われた。

桜姫とは、

周りの意志であり、意図であり、周りの望みであり、欲望であった。

弱かったから、そうならざるを得なかったのかもしれない。


そしてあの長い髪の女の子は、ガムをクチャクチャやり、斜に構えつつ、わかりやすく桜姫のかたわらにいたのだ。

たまに特定の誰かになると「またモノ扱いかよ」と言って静かにブチギレている髪の長い女の子。

この女の子は理不尽な目にあう女性の象徴だったのか?と思った時に鳥肌がたった。

常にいたのに、見えなくされていた。見ないように、見えないようにされてきた。桜姫のそばに、ずっとあった。桜姫もそうだった。

そこにスポットライトを当てていた。

あまりにも静かにその子はいて、気づいた時は内心とてもびっくりして涙も出なかった。

 

女性の扱いの歴史の進歩など微々たるものでしかなくて、ある意味常に差別だったのだと、今も続くのだと、そう言ってもいいのかもしれないと、思ったし、伝統芸能にそこを言うのはタブーみたいになっていて、自分も、ふたをしてきた。

 

話は飛んで、二幕目の冒頭、非人の役の人が背中の空いたシャツで缶ビールをふるえながら持ち、もうアル中まっただなか。すごくへん、と同時に喋り始めたらナチュラルすぎて、よくわからないけれど内心大興奮する。定型っぽい動きが、聞いたことのあるはずの今時の喋りが、すごく残る。なんだこれは。

出演者全員の演技が素晴らしかったのは言うまでもないのだけれど、それよりなによりも、見終えたいま、ストーリーを、忘れている。残らない。動きだけが残った。

動きが残る時。歌舞伎は、役者の動きが、すべてを連れてくる。ただそれは、個人に特化した究極の芸が持ってくるもの。動きに動いて動きまくって作られるもの。

この舞台は、そうではない。ある静かな繰り返しの動きだけ。

それが、見た後にすごく残っている。それが、心地よくて、どこかイライラしていた部分が、ふっとんでいる。舞台でしか、体験できないものだった。

 

木ノ下歌舞伎を見始めたのは2016年京都芸術劇場での勧進帳からで、あまり長くないけれど、

古典の現代化は、ここまできた、と今回思いました。
木ノ下歌舞伎にはこの先も断然期待しかありません。

どうか走り続けてほしいと、いちファンは心から願います。