震災から12年の日、相馬の野馬追の記録
デザインを学ぶにはコンペ、と言われるがままポスターコンペを探していて、たどり着いたのが南相馬市の野馬追ポスターコンペだった。
野馬追の過去ポスターはあまりにいかめしすぎるので私には無理だなと思ったが、馬を描けるということと、野馬追で使われているのぼり旗のカラフルなデザインに惹かれて、作ることにした。
応募した結果もちろん落選だったが、忘れた頃に、相馬の野馬追のチケットが2枚、送られてきた。
折よくコロナが少し落ち着いたから行ってみよう、と友人を誘った。私は馬の姿を見たいがためにたまに競馬中継を見るが、馬が描かれた雑貨をよく持っている彼女もまた馬が好きなことを知っていた。
東日本大震災で相馬という地名を知ったが、そこに「馬」という文字があることを全く意識せず、津波をうけた被災地ということばかり思っていた。
野馬追は、平将門から始まる行事だというのだから驚く。いや驚くほうが失礼だった、この国には歴史があふれているのだから当然だった。
そんなことを思いながら南相馬市へ向かった。
野馬追のすばらしさはうまく言葉にできない。夏だった。照る陽の下で甲冑に身を包み、汗だくになりながら、馬と全速力で駆ける人々がいた。
イベントを観光客として見ていただけだが、たくさんの馬が人々の生活の中にいて、とても大事にされていることがよくわかった。相馬という地名にふさわしい。
私が祭りや儀式を好きなのは、はるか昔と同じことを今もしている、ということに思いをはせられるから。
この野馬追も千年以上続いているとうたっている。
人と馬がともに暮らしてきた、長い長い日々の中の一日。
あくる日、午前中に相馬小高神社で野馬の追い込みと神馬の奉納を見て、地元のおいしいラーメンを食べた後、帰る前に海岸沿いへ寄ることにした。
震災から5年たとうという頃、私は石巻に行ったことがあった。別の友人と一緒だったが、被災した場所を歩き、一本松を見、高台の公園にのぼるころに、初めてその友人とけんかをした。重い空気がはらえなかった。車で石巻を抜けた頃、突如その空気はなくなり仲直りした。
沖縄に幾度か滞在した時にも、そのようなことがたくさんあった。幽霊が見えることはない。
きっと土地が、空気が、強い悲しみや衝撃をまだ覚えていたのだろうと思う。
海沿いの堤防はほぼ完成されていて、のぼらなければ海のすぐそばとさえ分からないようになっていた。海が見えない。
重い空気はなかった。ただ強く海風が吹き抜けるだけだった。
人間は、私たちのように堤防を見に来て帰るところであろう観光客2人と、分かれ道に立っていた工事現場姿のおじさん以外、誰も見かけなかった。
父が瀬戸内の島出身のため、夏休みは祖父母のいる島に滞在していた。家の裏は、海だった。今はコンクリートで埋め立てて道路ができ、海との間にも段差が設けられているが、幼少までは、自然のままの砂浜だった。
台風で家が浸水することも島ではよくあった。祖父母の家は幸い一度も浸水していないが、小学生の頃一度停電して、懐中電灯とろうそくの灯りで過ごしたことがある。祖父が窓に木板を打ち付けていたが、波が、どんどんと窓を叩く音が夜中鳴り響いた。板がなければ窓ガラスは割れていただろう。
海が好きだった。それは変わらない。でも泳いでいると潮の流れで岩場まで流されてしまったり、泳いでも泳いでも浜辺へたどり着かなくなったり、大きな船が沖を通過すると起きる突然の大波にひっくり返されて溺れかけたり、クラゲが異常発生して潮がひいた砂浜を死体が埋め尽くしていたり、そういう、たまに味わわされる恐怖を知っていた。
だけど今改めて東日本大震災の津波の映像を見返しても、わからない。12年経っても、理解がおいつかない。壁のように迫ってくるあれが、この海だとは。
はじめは、なぜこんな堤防を作るのか、わからなかった。こわくても自然と共存するしかないのにと思っていた。
今は、この長い長い堤防を、作るしかなかったのだろうと思う。それほど傷つけられたから。距離を取ろうとするしか、なかったのだろうと。
あの日のことが消えることはないし薄まることも、ないのだなとある時から思うようになった。もちろん普段は、忘れている。忘れていい。
でもあの日起こったことは、あの日生きていた日本人すべてに、深いところで永遠に刻まれてしまったような気がする。
それでもこの土地で思い切り駆けていく馬と人を見られたことは、3月11日の今日改めて奇跡のようだと思った。
相馬野馬追