ネクタイと仮面
前の職場でネクタイをしていた。
私は一応女なのでしなくてよかったのだが、新しい職場でスーツを着るようになり、スーツだけだとつまらないのでいつしかネクタイをするようになった。
剣先が小さめのものを選び、自転車や深海魚やドラえもんの刺繍のものをしていた。
5、6本ほどあったネクタイだったが、退職するにあたりとりあえずの必要がなくなりメルカリで売ったところ、いちばん気に入っていた小さな深海魚の刺繍が散りばめられた青色のネクタイが即売れた。
私は驚いたことにひどく動揺した。
このネクタイを売りに出したのは、もちろんもういいやと思って出したのだ。
けれど売れたとたん私は後悔のような、なにかとても重たい気持ちになった。なぜこのネクタイを売りに出してしまったのだろうと思った。買ってくれた人には申し訳ないが、何か言い訳してキャンセルにしてもらおうかとうつうつと考えた。
けれども一度いらないと思ったはずなのだ、と思い直し、重たい気持ちのままとりあえず朝になってから考えようと思った。
案の定朝になると重たい気持ちはだいぶやわらいだが、この、ネクタイへのひどい執着心は一体何かと考えざるを得なかった。
私がネクタイをしたのは、何が起きても強くあろうという無意識の表れだったかもしれないといまになって思う。
強い自分、男性のように。ネクタイがその象徴になっていた可能性は高い。
多かれ少なかれ外で働く人はみんなきっと、普段とは違う自分…薄い仮面をつけネクタイをしスーツを着るなど装って(武装して)職場に臨んでいる。
今回の件で私は、仮面とネクタイとスーツは同義語と扱えるかもしれないと思った。装う道具としては同じ作用だったのではないかと。
それは悪いことではない。働くということはそこでの役割を演じることでもある。だから演じるために装い、仮面をつけるのは至極まっとうでもある。
でも時に架空の仮面を厚くしすぎて本当の顔がよく見えない人がいた。そういう人は役割そのものになってしまっていた。仮面を無理にぎゅうぎゅう押し付けられ、あるいは自分でそうして、窮屈さに窒息しそうになっているようにも見えた。
あるいはあらゆる人が窒息しかけているかも知れない。
仮面をして自分の顔を隠すように、傷つきやすくもろい部分を隠す防御策としてネクタイをしていたかも知れない。職場での苦しみをネクタイによって緩和しようとしたか、あるいはドラえもんのように守ってくれる唯一のものとしてネクタイに謎の執着心を生んだのか。
演じるということにもともと悪い意味はなかったはずなのに。
日本の演劇は能楽に始まったという話がある。それは古く田楽などの物真似芸であったと。
おじいさんとおばあさんが出てきて、生殖、生命の始まりにかんするエロティックなお笑いの寸劇が始まる。
そのおじいさんとおばあさんは仮面をつけていて、村の誰かが演じている。でもカミサマでもある。稲を芽吹かせ、茎を葉を伸ばし、実をつける、その不思議な過程は人間が関与できない神秘のちからだったから。だからカミサマを登場させ、もてなし、演じ、笑い、歌い、稲の豊作を祈った。
演じる中に、神秘的なちからと笑いは同居していた。
それが分かれて、神秘的な部分を能が、笑いの部分を狂言が受け持った。だから両者はいまも同時に舞台で上演されるならいになっている。(笑いについては別に書かないといけない。)
祭りでは限られた演じ手が演じたのだし、かつての日本で村人全員が演じるなんていうことはなかったのかもしれない。けれど社会が進みに進んでこの近年、個人個人が程度の差はあれ社会に出る際に、自分を演じなければならなくなったと思う。
私は、演じ方がわからなかった。
いまも時々考える。どう演じれば正解だったのかと。
能面をかけたシテの能楽師は、その日演じる曲の主人公そのものに「成る」。
(ところで能面は「つける」とは言わず「かける」と言う。)
成り切るのではなく「成る」。成り切る、という言葉はどこまで行っても演技の範疇におさまるが、能が行うのは簡単に言うと演技以上に「そのものに成る」ことだ。それはカミサマが「憑依する」という技から来た思想なのだろう。
別人に「成る」ために、あらゆる能の仕掛けが…能面や鬘(かずら、かつら)(個人の象徴である顔や髪を隠す)、装束(体のラインを隠し男女の別さえ見えない)、発声や謡(普段の喋りと違う上、能面をかけたため少しこもって聞こえる)、などがあるとも言える。
その時のシテ、つまり能面の中の人はもちろん生身の人間なのだけれど、当人の面は消えてしまっている、つまり顔がない。いちばんわかりやすい顔という個性が消えた状態。
その消えた状態のところに、現れてくるのが能の曲の主人公。
個人の上に上書きし乗せて演じるのではなく、削りに削り落として現れてくるものが、おそらく能の演じるということ。
そして実際の能の舞台は同じ人であっても毎回毎度、違う。個性を削りに削っても決して消えないものがあると、昔の能楽師はどこかで気づいたのだろうか。
例えば想像してみる。すべての人が、仮面をつけて職場へ働きに出る。
それは社会用、職場用の仮面で、各役職ごとの仮面をつければ役割も明確だ。
相手の表情も読み取れないので、アッ相手が嫌な顔をしている…とショックを受けることもないから精神面にも優しい。
また特におすすめなのが、例えば女性が生理前などイライラしている時に、般若(はんにゃ、鬼)の面をつけて行くこと。わかりやすく般若面だと誰も話しかけてこないから、つい相手にイライラをぶつけ自己嫌悪に陥る必要もないし、とばっちりを受け落ち込む人もいない。
この時大事なのは、自ら進んでつけるということだ。
ああ、日本はこの数十年のあいだ、いやもっと遡って明治維新の時からこちら、個性の扱いを間違えてきたのかもしれない。
西洋式の個性をうらやみ日本人も、そうなりたいと思った。自分のやりたいことを探して現在進行形で自分探しというワードは消えない。
けれど上書きするその個性は厳しい社会の上に成り立つ。この先もきっと日本では真似などできないのだろう。
削って削ったその先にある個性、それを、各人が探していく時期が来ているのかも知れない。