ノーノーノーライフ(No Noh,No Life)

能狂言のこと、伝統芸能のこと、観劇レポートなどをかきます。15歳ころ能楽に出逢う。多摩美術大学芸術学科卒。12年間伝統芸能の専用劇場に勤務。スペースオフィスというユニットで能狂言グッズなど作っています。Twitter@ofispace

出逢い_2

(1からの続き)

 

福を授けるカミサマはえてして唐突に現れる。それは昔話、民話などで突然の福を授かるというお話として残る。

ここ掘れワンワンの花咲か爺。浦島太郎。舌切り雀。などなど。

花咲か爺は、拾った犬が思わぬ恩返しをしてくれる(意地悪な隣人には懲らしめを与えてゆく)。

浦島太郎は、いじめられている亀を助けると竜宮城へ連れて行ってくれ、開けてはならない玉手箱をお土産に授かる(そんな玉手箱開けるにきまっているが)。

舌切り雀は、怪我をした雀を可愛がったおじいさんには金銀財宝を、舌を切ったおばあさんには魑魅魍魎が飛び出るつづらを与える。

 

これら唐突に何かを授ける動物は、まあおそらくはカミサマやカミサマの遣いなど人間と異なる層にいる者と見ていいだろう。

昔話はいろいろな見方ができるので、こういう話だ、などとくくることは浅はかだと思うしいろいろな見方を楽しむのがいいと思っている。それはお能にも言えることだけれど。

 

物語が語られ話されするうちに変容しその土地や人々の生活に沿うものになっていく、その過程で人間の心の底にあるものが具現化されていっている可能性が昔話は高い。

意識されないほど深くに潜む私たちの心の願いが昔話にある、そう考えると、季節など関係なく突然現れて福を(福ではないものも)授けるカミサマを心待ちにしていたのは昔から変わらないのかもしれないと思う。

上記のよく知られる昔話は、良いことをしたから犬や亀や雀が福を授けてくれたことになっているが、ストーリーの辻褄を合わせるためそうした感もあり、どこからともなく来て福を授けてくれるという行為は人知を超えていて、一方で厳しいものも授けるので恐ろしいのだがおじいさんや浦島太郎にはつづらを断ることも竜宮城を断ることもできまい。

どうしようもないことだけは確かだ。犬に、亀に、雀に出逢った時点で、進み始めてしまって、もう誰にも止められない。

 

その出逢いへの願いは、現代で男女の出逢いにまで波及していると考えると少し面白い。

もちろん私を含む一部の人だとは思うが、「出逢いがなくて…」という言葉で全てが通じてしまうことを考えると、この唐突にやって来る出逢いへの現代人の期待は少なくない。

理想の、あるいは理想のでなくてもいいのだけれど誰かと出逢う機会がないものか。

その者は自分に新しい何かをもたらしてくれるはずだから。

見渡すとそんなことで結構な話題が埋め尽くされている。

 

本当は、辛いことも含まれるのだがそれは置いて、出逢いを誰もが待ち望んでいる。出逢ったら止めることはできないし、得るものが良いものとも限らない。

それでも出逢いを望むのはきっと、心が進みたがっているからなのだろう。

 

偶然を装いながら、運命だったのではないかと思わせてしまうちからを持つ、出逢いというもの。

人生を伸ばし良い方向へ向かわせてくれるもの、しかし時に全てを狂わせるもの。

予測不可能で、待っても来ないし、知らないうちに出逢っている。

 

お能で異形の者と僧侶が出逢う設定は観客には必然であり、ストーリー上は偶然出逢うのではあるが、だからこそそこにはすでに運命が仕込まれている。

観客は出逢うことを必然だと知りながら、登場人物たちは偶然のように振る舞う。

観客のそれは、世界を見下ろすカミサマの視点なのだろうか。

そして僧侶と出逢わなければ本性を見せることはなかったであろうシテ、シテに出逢わなければ本性を見ることはなかったであろう僧侶。

けれど出逢ってしまって、シテは本性を現す。

 

お能のとおり、出逢うということはおそらく、本性を見つけていくことでもある。

自分も、相手も、見たくはなかったものも見るだろう。

それでもその中に、何にも代えがたい光るものを発見する。あるいはやはり発見できずに調伏しようと戦う場合もある。

もう出逢いたくない、怖いし恐ろしい。それでもお能は繰り返されなければならない。

なぜなら毎回のお能の舞台で、観客とシテもまた出逢う運命だからだ。

必ず起こる出逢いを求めて、合コンではなくたまにはお能に行くのもいいかもしれない。

繰り返すことそのこと、リピートすることこそが、出逢いをパターン化したお能がしたかったことなのかもしれない、とぼんやり思った。