出逢い_1
夜の暗闇の中、20歩ほどの距離の家の前の小道の途中で、ガサッとなにかが草むらに逃げた。
2日後、昼間は曇りで、その小道の脇にはガマガエルがどすっと座っていた。
ああこの子があの夜の…と思い見つめる。突然しゅっとカエルの前の草が揺れる。虫を食べたらしい。
しゃがんで姿を観察する。ぼつぼつしたいぼ、茶色の表皮。目はくりっとしているが、動かない。まったく動く気がなさそうなので、立ち上がりバイバイと手を振って小門を閉じる。
早めに戻って来た時が、もう彼(彼女)はいなかった。
夏に入る前の湿った夜、やはりあの辺りで小道の中央に陣取っていたガマガエルがいたのを思い出した。そこにいたら誰かに踏まれてしまうよと、傘の先で少しずつずりずりと動かして(カエルは表皮に毒があったりするから触らない)、道の脇の草むらにずれてもらったのを思い出した。
あの時迷惑そうに物憂げな顔をしていた彼だろうか? もしかしたらそこら辺りに住んでいるのかもしれない。
あの時はずりずりしてすまない…と草むらに謝りつつ家の中に戻る。
なんとなく嬉しい。
同じ個体に会えるというのは昆虫や爬虫類ではあまり無い、というか同じ個体なのか見分ける能力がないからわからない。
でもたぶん同じ彼だろう。この辺りに住処を持っていてまた会えるかもしれない、という確信はなぜかほのかな安心も湧かせてくれた。
カエルは、なにも考えていないように見える…少なくとも私に興味はない。
けれど2度も出逢うのは。なぜだろう勝手に少しわくわくしている。
毎日通る小道がいつもより少し楽しくなる。
そこに行けば出逢える、と思って出掛けている僧侶は、お能では一応いない。
僧侶が旅をして、その土地にゆかりのある何かや誰かに出逢う、というのがお能の冒頭でパターン化されている流れだ。
みな自分の修練や本山に行くために旅をし、そして不意に精霊やら幽霊やら怨霊やらと出会う。
ただ私たち観客は、僧侶が誰か、つまりこの世の者ではない誰かに出逢うことを知っている。
出逢いがパターン化されるということは、出逢いに驚きや新鮮さはなくなる。逆にそれをパターン化したということは、お能は出逢いに新鮮さや驚きを求めていないとも言える。
出逢いはある。けれど重視しているのはそのことではないらしい。
出逢いがない…とため息まじりに吐かれる言葉は昨今恋人の有無を聞かれた時に必ず出る常套句のようになっていて、誰もがそうかぁ、と静かになりながら共感する言葉でもある。
いつか必ず来るであろう出逢いを、誰もが心待ちに待ち望んでいる。
出逢いを求めて自らがんがん合コンに行きまくる友人もいたが、彼女は元々喋ることもおもしろくてエネルギッシュなツワモノという感じであり、人によってはそこまでできないだろう。
個人の性格や性質もあるが、それだけではない。
出逢いというものが「向こうから勝手にやって来るもの」だと、無意識に、そう思っている。
自分で探しにいくのはなんだか浅はかな気がして、できない。自然と来るのを待つのが、自然という気がする。
かといって行動的な人を羨ましくも思っているのだが。
この、みんなが待っている「向こうから勝手にやって来る出逢い(男女の)」。
というのもこれは、カミサマに近いのかもしれないなと思った。
来訪神と言われるカミサマはたいてい「向こうから勝手にやって来る」存在で、勝手にやって来て福を授けてくれる。
こちらから出向いていつも出逢えるようにしたのが寺社仏閣や折々の季節行事ではある。
だが心の奥底では、実は本当のカミサマや福とは「向こうから勝手にやって来るもの」だと思ってはいないか。
それは昔話で福を授けてくれるカミサマが、期せずして唐突に現れているからかもしれないと思う。