ノーノーノーライフ(No Noh,No Life)

能狂言のこと、伝統芸能のこと、観劇レポートなどをかきます。15歳ころ能楽に出逢う。多摩美術大学芸術学科卒。12年間伝統芸能の専用劇場に勤務。スペースオフィスというユニットで能狂言グッズなど作っています。Twitter@ofispace

俊寛、なぜ自分だけが

いぜん宿泊先で、15分過ぎてチェックアウトしたら無料の送迎バスがもうなく、駅に行くバスは…と受付の女性に聞いた。

女性は何かにものすごくいらだっているようだった。

バス停までの道順を教えてくれたが、なぜか一言も頭に入らず、聞き返すのも怖かったので黙った。向こうも黙る。

ややあって、時間は…と聞いて「次は◯分です」と言ってくれるのだがあと2分、走るつもりは毛頭ない。

なんだかうまく考えられない。向こうも黙る。また次の時間は…と聞くと次は◯分です。その次を聞こうかと迷ったが、飲み込んだ。

 

最低限のことしか答えないのは、偏見かも知れないが欧米ではふつうのことで、日本人の親切すぎるサービスに慣れすぎたこちらが悪いのかも、と思う。

相方に、バス停までの道順、覚えてる?と聞く。覚えている。それはそうだ、近くらしいから簡単な案内だったはず。

私の耳が遠いのかもしれないが、おそらく体がその時、暗さを隠した声を聞くのを拒否してしまったように思う。自分にも、そういうことはあるのに。

 

バス停へと外へ出た途端、ひどい雨が降ってきた。しかも相方も道順を間違えて、左へ行くところを右に行き、ないないと言いながらひと駅先のバス停に着いてしまった。

そういう、連鎖が続くこともある。いや、引きずられる方も悪い。その時私たちはロッジの周りを散策して来た後で、たいそう穏やかだったので笑って豪雨の中バスを待った。

 

 

めぐる、という思想が仏教にはある。知られている語彙では輪廻転生、因果応報などだろうか。

おのうでもよく使われる語だが、特に因果応報の現代での使われ方は、行いの結果は自分に返ってくる、という戒めの意味も含まれる。

その上「誰もが平等に」、良いことをすれば良いことがあり、悪いことをすれば悪いことが起きる、と拡大解釈もしているような気がする。

おそらくもともとの語は個人的なめぐりの話だったはず。

人の、平等性を望む気持ちが因果応報とくっついて、ひとり歩きしてしまったのだろうか。

 

平等を望んであまりにも哀れなのは「俊寛(しゅんかん)」だ。

平家討伐の陰謀がばれて鬼界ヶ島に流された俊寛、康頼(やすより)、成経(なりつね)の3人。中宮の御安産祈願のため特別な赦しが行われることとなり、赦免状を持った役人が島に到着する。俊寛は赦免状を受け取り、康頼に読み上げさせる。

島を出られる者。そこに、康頼、成経の名前はあったが、俊寛の名は、なかった。

俊寛は驚く。赦免状を読み返し、読み返ししても名が書かれていないのを確認すると、泣き崩れる。

ひどい島、波は激しく荒れ狂い、そんなところへたったひとりきりで残される恐怖に打ちひしがれて。

 

赦免状に名前がなかった時の衝撃と動揺、そして絶望へと至る俊寛の心情を、おのうの舞台はよく表現している。

なぜ、自分だけが。

俊寛の嘆きは、その一点に凝縮されていく。

  

因果応報という言葉は、行いに対して善悪相応の報いがある、というのが一般的に理解されている意味だが、それは少し違うと、あるお坊さんに聞いた。

因果応報は「因に応じて果が報う」。因は原因、果は引き起こされる結果。

因に応じて果が報う、つまり、因によって、果は報うこともある。

あるけれども、必ずしも因によって果が起こるとは限らない。

 

とそんなお話だった気がするのだが、メモしたノートをどこかへしまって見つからないため、確信が持てない。

俊寛は、3人の罪が同じなのだから、同じ赦免を当然と思っていた。康頼が読み上げた直後、なんで私の名前を読まないんですか、と言うほどに当然のことだと。

しかし赦免使は2人だけを連れて容赦なく俊寛を置き去りにする。

 

同じことをした。けれど結果は同じではない。

それを生きねばならないのが人間だという気もする。

俊寛がどんなに善行を積んできたとしても、残念ながらそれは善い果に結びつくとは限らない。康頼と成経は「たまたま」運が良かったと思った方が、両者にとっていい。

どうしても繋げて考えたがるのは、人間がわかりやすい物語が好きだからではないか、とも思う。そういう意味ではおのうの「俊寛」の、物語の切り取り方は異色かも知れない。

 

社会という人間のコミュニティーが、自分を、他人を納得させるために平等性を求め、因果応報という語に後から後から自然と意味を附していったと考えてみる。

いただいたら返す、という直接的なお互い様の平等思想は、やがて、悪いことをしない、だからあなたもするな、という間接的な「心がけの平等」にまで発展したように思う。

その「心がけの平等」は長い時間をかけて日本人に通底し犯罪が他国より少ない時代があったとしても、それがどんどん拡大され、私は苦労した、だからあなたも苦労しろという謎の、負のお互い様、負の均質化がはびこる原因となってはいないだろうか。

 

しかしこれも因だとして、果が報うかどうかはわからない。

  

しばらくは、因果応報は因果応報でない、ということを考えてみようと思う。