ノーノーノーライフ(No Noh,No Life)

能狂言のこと、伝統芸能のこと、観劇レポートなどをかきます。15歳ころ能楽に出逢う。多摩美術大学芸術学科卒。12年間伝統芸能の専用劇場に勤務。スペースオフィスというユニットで能狂言グッズなど作っています。Twitter@ofispace

海人、強くて哀しい母

となりのアパートの1階に赤ちゃんがいるのは、時々泣いている声が微かに窓越しに聞こえるので知っていた。

窓から漏れ聞こえてくる音にはお母さんとお父さんの優しいくぐもった声もある。状況を察するに、どうも、赤ちゃん、お母さんがほんのちょっと(例えばゴミ出しにドアの前の道に出るくらい)離れるだけで常に泣き叫んでいるようす。

 

いぜん病院の待合室で、1歳か2歳くらいのよちよち歩きの男の子とお母さんと一緒になった。

やはりその男の子もお母さんが診察している間、少し引き離されただけで泣き叫ぶ。病院という、日常と違う空気もあって緊張してもいただろう。

その子は待合室でお母さんの腕にすがっても、まだ泣き叫んだ。お母さんは、はいはい〜と言いながら椅子に座り、男の子を抱えて抱っこ紐を準備、それでも男の子、泣き続ける。

お母さんの胸におさまって、すると、けろりと泣き止んだ。

そのお母さんにとっては毎日のことなのだろうが、私は感嘆していた。

赤ちゃんは、感覚で、お母さんを感じられないとだめなのだ。しかも、確実に自分と向き合ってくれているという感覚。

それは、赤ちゃんの持っている基準みたいなもので、成長していく過程でとっくに忘れている。

みな、ふつうにお母さんやお父さんをやっている。でも自分とは全く感覚の違う人を育てている。褒められてしかるべき、と赤ちゃんを抱く予定のない自分は思う。

 

となりのアパートの赤ちゃんは、お母さんと小道で遊んでいたら、毛虫を見つけてしまったようだ。 2人であれあれと笑っている。

その繋がりの尊さと、強固な繋がりを経ていつか必ず別れていくこと、そこへ向かう時間の積み重なりを思うと、2人がいま一緒に毛虫を見つけて笑うような、そういう一瞬が、やはり奇跡なのだと思わずにはいられない。

 

 

母のちから、というのを思い知らされるのは、おのうでは「海人(あま、海士)」にはじまるだろう。

 

「海人」は、貴族との間に子を成した海人の女性が、龍宮に取られたという宝珠を自分が潜って取ってきたら、この子をあなたの世継ぎにしてくれ、と頼み海中へ飛び込んでいく。

海人は貧しかった。身分違いの恋だった。せめてもと子の豊かな生活を願ったのだ。

龍宮では八大龍王が、宝珠を置いた塔ごと守っている。龍王の口はワニのよう。

それを見て海人は恐怖に震えるが、海上の愛しい人と我が子のことを思い涙し、決死の覚悟で龍宮に飛び込む。

海人は、龍が死を嫌うことを知っていた。胸の下を剣で掻き切り、宝珠をその体内に押し込め、血を流すことで龍王の追随から逃れ海上へと逃げたのである。

 

あまりにも血なまぐさい(おのうの舞台では血は全く流れないが)情景にいつも、自分が身を切って宝珠を入れる…というのを具体的に想像してしまい、顔が変なふうに歪んでしまう曲である。

そしてそこまでしなくてもいい方法はなかったのだろうか…と思ってしまう。物語なのに。

 

母は子を守る。これは本能に依るものとされ、あまりにも強く優しい母親像は、普遍的な理想像でさえある。

一方で、この「海人」の夫は何だろう、と思う。

死ぬ気で飛び込む海人を止めようともしない、その前に子どもの幸せを確約もしてくれていない。

まるでディズニーアニメの『白雪姫』の王子のように没個性である。継母にまつわる詳細な描かれ方に対し、王子は最後に白雪姫を起こすためのただのきっかけでしかなく、正直誰でもいいという描かれ方。

あまりにも強い女性性の前では、男性性は薄くならざるを得ないのかもしれない。

 

どこまでも、女性はたったひとりで強くなることができる、のかも知れない。

けれどそれは仕方ないからであって、本当はひとりで強くなるのは(海人が海中で泣いていたように)辛くて寂しいのだ、当然。

ツイッターで時々見かける、主婦の方々の夫への嘆きに「海人」を思い出す。 

 

 

 

嘆きも聞こえてきそうなほど「海人」の母親はあまりに立派だが、作者が男性だから、理想の域を出ていないということもあるだろう。

おのうの「海人」をご家族で観てもらい、観終わった後トークしてみるというのも、いろいろデトックスにならないだろうか、と思ったりする。

海人も、時代が変わってもお母さんたちに共感してもらえると知れば、成仏もひとしおだと思うのだが。