翁、星の光
大学生の時、翁(おきな)とカミサマのことばかり考えていた気がする。
卒論は翁のことにして、大学4年の10月、奈良豆比古神社の三人翁を見に行った。
古い翁の形態を残すと言われていて、白いふくふくと笑った翁が通常1人なのに3人も出てくるなんて、とすでに感動しながらまっくらな奈良の坂道を登った。
その道はほんとうに街灯がなく家々の漏れる明かりだけ、どこか違う世界に迷い込んだかタイムスリップした気分になる。
三人翁は終わり、再びまっくろな坂道を駆け下りる途中、目の前に突然、巨大な山がそびえ立っていた。
山はだはハゲていて、草木はない。こんな険しい高い高い山が、奈良にあっただろうか…と思いながら、電車の時間があったので急いで走っていた。
しかも高さに対する距離感がおかしい。近いと見えて、ふもとがとても遠いのだ。
まっくらなのに、山はだまで銀色にはっきりと見えるのも、ありえない光景だった。
月の光だったのだろうか。でもたしか、月は見当たらなかった。
おかしなものを見た…と息を切らして思いつつ、三人翁の日だったから仕方ないと、電車でホテルへの帰路についた。
卒論では、心理学者である河合隼雄さんが書かれた中空の神の論に寄せて、三人翁の考えを進めようとしたけれど、中途半端に終わった。
それはいいとして、一度観たら誰しも忘れられないのが「翁」という演目だろう。
おのうが神事芸能だった頃の姿をいまに伝える。
現在、おのうには二百曲ほどあるが、「翁」だけは別扱いだ。翁を演じる能楽師は、それぞれのやり方で精進潔斎し身を清めてから舞台に立つ。
始まる直前、楽屋や幕の内側の鏡の間と呼ばれる部屋でも、祓うための石を打つので、カチ、カチ、という音が客席にも聞こえてくる。
とうとうたらりたらりら、たらりあがりららりとう
翁の始まりの謡、これは呪文だ。川の流れる音だとかいろいろ諸説あるけれど、もはや発生は遠くわからない。
言霊(ことだま)という語は、言葉に宿るたま、霊力のことだが、呪文とはまさにそれだった。言葉を発すれば世界は変化した。
もちろん発する人間のエネルギーやちからにも依る。
人類学者の中沢新一氏の著書『精霊の王』で、金春禅竹(こんぱるぜんちく)の「明宿集」を知った。それも大学生の頃。
彼が書いた曲は、古風で少し不思議なものが多いように思う。個人的なことを言うと世阿弥より禅竹のファンである。
禅竹は、翁についての秘儀を書き残していた。それが「明宿集」で、昭和に発見され、界隈では話題になっていた。
「明宿集」によると、翁は、宇宙が創造された時からすでに出現しており、あらゆる場所へ示現する神という。
おもしろいのは、翁の面の7つの穴、つまり目、耳、鼻、舌(口)は、北斗七星を表すという。
翁を宿神(しゅくじん、しゅくのかみ)と言うそうだが、その理由は、翁が北極星であることに由来するという。
太陽と月と星の光が、地上に降り、その光は人に宿った。
太陽、月、星の3つの光は、式三番(しきさんば)に対応する。日・月・星宿の意味をこめて翁を宿神と呼ぶ。
「宿」というのは、星の光が地上に降り、あらゆる業を行う、という意味。
あらゆる事象のゆえんは星であり、翁は星の中の神、つまり北極星であるという。
拡大すると、魂と呼ばれるものの正体は星の光で、それはあまねく降り注ぎ、人に心を宿す。
光は、影があってはじめて認識される。逆もまたしかり。
光ったりかげったりする人の心は、そもそも星の光だったから、と考えると腑に落ちる一方、あの美しい光が、このしようもない人間の体に宿っているというのもなかなか信じ難い。
ただ、禅竹は「明宿集」の最後にこう記す。
あらゆる人がその光を心に宿していながら、そのことを知っているのと、知らないとの違いがある。人の心とはそのようなものだ。
これについて、さまざまに工夫し、思考を深めていきなさい。
「翁」は、新年に各能楽堂で必ず舞われる。
知らなくても、毎年々々、日本は、翁によって祓われてきただろう。
星の光を宿してくれたのはあなたなのか、と尋ねながら、神聖な空気に浸ってみるのもいいかもしれない。
※式三番=翁のさらに古い形態という説が有力で、父尉(ちちのじょう)、翁、延命冠者(えんめいかじゃ)の三体が登場することから例式の三番という意味とされる。または、現在の「翁」を指す。
・「明宿集」原文 日本思想大系24『世阿弥 禅竹』岩波書店、1974年