加茂、京都の根源
京都に住んでいたことがある。仕事の異動の関係で、初めて関西に移り住んだ。
京都は美術品が多い、それもふらっと入った思わぬ寺や期間限定の特別公開で発見するので、大学生の頃からたびたび旅行していた。
見ると住むでは大違い…とはよく言うが、そんなに大違いではなかった。
残念だったのは、3年間住んで友人が1人もできなかったこと。町の人は、やはりよそ者にどこか距離があった。
私の人格に問題があるのではとも思ったが、次に住んだ大阪では1年で20人は友人ができたので、京都という特別な土地のせいにしておく。
大阪という町は逆に、人と人との距離がなさすぎるのかもしれない。
友人がいない京都生活で、休みの日に何をしていたかというと、寝ていたい体に鞭打ち、当然寺社仏閣に行きまくっていた。
七条の小さな旅館街のすきまにあるアパート、そこから自転車か、距離が遠ければ地下鉄で移動(バスは観光客で大混雑する)。
しかしある時、自転車で移動すると、目的地いがいの道ばたの素敵な骨董屋や喫茶店やらを見逃すことに気づき、徒歩になった。
大通りは車の往来も多く、徒歩だと排気ガスの犠牲になるのでどう移動するか困ったが、京都には川があった。
みんなが大好きな鴨川だ。
犬の散歩、楽器の練習、カップルの語らい場として、鴨川は広く人々に愛されている。川沿いの芝生が混じる歩道は、春は桜並木を眺められる最高のお花見スポットでもある。
鴨川沿いを歩くのが休日の楽しみになった。五条、四条、三条と北上する。二条、一条になると店や家も減り、目の前は遠く山がそびえる桃源郷だった。
それと、よく考えたら、この川岸では、おのうが生まれていたのだった。
不思議な視点で鴨川をたたえたのが、金春禅竹のおのう「加茂(かも、賀茂)」という曲。
禅竹は、世阿弥の娘婿という話は以前したと思う。
「加茂」は、賀茂神社の縁起をもとにした曲だ。
川に流れてきた白羽の矢を、秦の氏女(はたのうじにょ)という里に住む女子が拾った。すると妊娠して男の子を産む。
3歳の時男の子に、父は、と問うと矢を指し、すると矢は雷となって天に上り、神となった。賀茂神社の別雷神(わけいかづちのかみ)の由来。
そしてその男の子も、秦の氏女も、神となった。
それは少し置かせていただいて、私の心を奪ったのは、川の描写だった。
この曲が作られた当時、賀茂縁起ははるか昔の話。その矢がご神体だという言われは、いまはどこにあるのか、とワキの神官が問うくだりがある。
里の女(実は秦の氏女)は、心と川の様子を並べて答える。
名は変われども、すべては同じ川の流れ。心と同じように、皆ひとつから成るのであって、水が濁っても清らかでも、結局同じ流れだ。
下は白川、上では加茂川と言い、石川とも、瀬見の小川とも言う。
澄むも濁るも、昔も今も、変わらない。水は変わっても、流れは尽きず。その流れの元は、山奥の貴船川に通じる。大堰川、清瀧川。朝日を待ち、水を汲もうよ。
白川は、いまは祇園の小川として流れているが、鴨川の支流。大堰川は、嵐山の渡月橋を境に上流を大堰川、下流を桂川と呼んでいたらしい。清瀧川は、これも桂川の支流。
シテの秦の氏女の謡に乗って、脳内に再生された映像。
それは、白川を始めとした鴨川に沿って始まり、北の貴船川、西の大堰川、清瀧川、と徐々に空へと浮かび、京都の川の流れ全体を俯瞰するような、禅竹の視点だった。
むかしむかし、人が名づける以前から川は流れていたし、これからも流れていく。
尊いから、名前がつく。根源は同じ、むかしも、いまも、変わらない。
後半は、別雷神が登場し、力強く雷を鳴らし、飛び去っていく。
でも禅竹が書きたかったのは、別雷神ではない。別雷神の、根源を追求している。
別雷神は、神だから尊いのではない。川の流れ、その象徴である白羽の矢から生まれたから尊いのであって、それをもたらした川が尊いのは当然だ、ということ。
しかしすくってもすくっても、禅竹のほんとうの本音にはたどり着けない気がするのはどうしてだろう。
やって来て、消えていくのは、人の心も、川も、神も、同じ。
この曲が書かれてからもさらに時代は進んでしまったが、禅竹のおかげでまだ、根源に思いをはせることはできるかもしれない。