ノーノーノーライフ(No Noh,No Life)

能狂言のこと、伝統芸能のこと、観劇レポートなどをかきます。15歳ころ能楽に出逢う。多摩美術大学芸術学科卒。12年間伝統芸能の専用劇場に勤務。スペースオフィスというユニットで能狂言グッズなど作っています。Twitter@ofispace

節分、外側の鬼から内側の鬼へ

自分の内に鬼がいるとわかってから、節分で豆を撒くことをやめた。

もう今年は豆さえ買わなかった。

 

ニュースでは各地の節分行事を紹介する。全身が赤や青の、ニヤニヤした変な鬼がちらほらいるのを横目で見る。

私の内の鬼はあんなに可愛くもひょうきんでもないと思う。

 

 

私は、古いものは大事だと思ってきた方だと思う。

よく言えば過去の人々の考えたことに敬意をはらって。悪く言えば盲目的に。

その是非については考えたことはなかった。

けれど今年の立春たぶん生まれて初めて、古くても大事ではなくなってしまったこともあるのではないか、あるいは意味が変わっていくこともあるのではないかと思った。

 

人は、いや私こそが、古さとは個人をはるかに超える時間を経過してきているのだからそこに問いなどはさむべきではない、人間の歴史自体を問うてはならない、そう思っていた。

 

立春の節分は追儺の行事でもって、冬に生まれた難(鬼)をはらい、新しい年、新しい春を迎えるためのものだった。

それはかつての人間には必要なものだった。農耕民族になるそのもっともっと以前、たぶん縄文時代から。

自然と共に生き、冬が厳しさしかなかった時代には春は本当に心待ちに待ち焦がれられていたのだ。

その気持ちの片鱗は現代の私たちにもある。だが、思い焦がれるレベルがおそらく絶対的に違う。

食べ物は秋の貯蔵物に頼りそれもだんだんと減っていく。寒さ、すぐそこにある飢え、そして死。

冬は死の香りがする。生き物は育まれないからだ。それは昔ほど顕著だったことだろう。

 

その代わり土の下で春を待つ種子や生命がいて、豆はそういった種と同様、命を内包する、ちからあるものと見なされた。

生き生きとした生命を内包した豆、それは冬という恐るべき死の怪物を蹴散らす。

そうやって象徴的に生と死のドラマを演じることは、必須のこととなっていった。まるで人間が行事をしないと春は来ないとでもいうように。

そしてそれは人間の心からの祈りや感謝でもあった。春が来ること、それは即ち食物を得られることを意味した。

けれどマーケットに行けば年中食物が手に入る私たちには、もう考えても考えられないことなのだ。

その祈りの厳しさと必死さは、もうわからないところまで来てしまった。 

 

寒さと飢えから逃れた生活は本当にありがたいと思う一方、その犠牲があまりに多すぎるので今の時代は生きながら違和感があるのも事実。(これはまた別の話になるので置いておく。)

私は現代がもろ手を挙げて賞賛されるべきものとは全く思っていない。

しかし今は鬼をはらわなくとも春は来る。今日は最高気温19度で春一番が吹いた。

それは温暖化のせいもあるのだろうけれど、春を感じるにじゅうぶんな暖かさだ。体は外気が暖かいということだけで、もう喜んでいる。

 

けれどまたこの内側には鬼がいるということも知っている。

私の中の冬は消えない。冬即ち鬼は私の死と共にあり、私が生きている限りは鬼もまた同時に存在するからだ。

なぜなら生きている限り必ずいつか死ぬのは必然だから。

外側で象徴的に、鬼を追いやればいいという時代はもう終わったのだろうと思う。

 

敏感な人や、特に女性なら自分の内の鬼の存在にうすうす気づいている方もいるだろう。

 

女性だけにいるわけではなく男性の内側にももちろん鬼は存在すると思っている。

女性性は男性の内にも女性の内にもあって、性差は肉薄してきてもいると思うからだ。あるいは昔からそうだったか。

 

能面で般若は女性であること、能楽で恨みや嫉妬から鬼に変化するのはだいたい女性であることを思うと、女性性と鬼の結びつきが強いのはそうなのだとは思うが…。

ただ現実としては女性の方が生理で自分の体や感情について敏感にならざるを得ない状況が多いと思うため、鬼への気づきは女性の方が多いかもしれないという憶測である。

 

生理でなぜあんなに毎月イライラしたり体調不良にならなくてはならないのか、と思っている方も多い。私もずっと腹立たしかった、自分がコントロールできなくなるのが。

生理時に、鬼を感じることも多いように思う。おそらく自分がコントロールできないこと、それこそがメッセージでもあるのだろう。

私たちはあまりにも片側を生き過ぎていて、生理時の症状は、それに対する補償なのではないか? 春ばかり見て求めて、冬という鬼を遠ざけようとしている補償? 鬼の反逆?

その疑問が頭から消えない。

 

外側に難があった時代、人間はそれを頑張って攻略しようとしてきた。

寒さ飢えひもじさなど辛い状況を打破し快適に生きようとしてきた。

そしてとうとう外側の快適さを手に入れた今、外側にいた鬼たちももうそろそろ駆逐できたとそう思っていないだろうか。

でもたぶん違う。鬼は消えずに、人間の中に再び違った象徴的な形で見出されるようになったのではないか。

苦しむこともまた生きることの一部だ。絶対的に快適でスムーズで違和感のない人生などあり得ないということ。

私たちは春を求め過ぎ、冬の存在から目を背けすぎてきてはいないだろうか。

冬が無ければ、春もまた無い。

変化するということもまた自然の一部なのだ。さしあたっては豆まきの代わりに、変化と鬼に対して感謝し祈るようにしようと思う。かつての人々が春に感謝したようにはいかなくとも。