葵上、六条御息所の鬼_3
(2の続き)
おそらく後場の御息所は、アイデンティティも人間の心も失って登場する。
それは御息所だろうか。それとも違う人なのか。
女性は変化する。それは、もとよりそういう性質を持っていたということだろうか。
御息所を呼び出した巫女。古来より神をその身体におろし、コンタクトを取る役割を担っていたのは巫女、女性だった。
月のものがある女性は「聖なるちから」があるため神にも近いとされ、また神と接触もできたのだろう。
だが神おろしとはなかなか恐ろしいものである。巫女が神を降ろす時、彼女は別の人格に「変化」している。
ちょうど『からくりからくさ』を読んだ頃だったろうか、吉本ばななの『マリカのソファー』という本で多重人格を知った。
マリカは幼い頃深く傷ついてそのため多重人格になっている。
読みながら、なぜアイデンティティが変化することはちょっと怖いのだろう、と思っていた。
巫女もやはり怖い。知っているはずの人から知らない誰かが出てくる。
その知っているはずの人とは、いったい誰のことなのだろう。
「変化する」ということは、何か確たる不変のもの、あるいは変わらないはずのものがあって、そこから違うものに成ること。
人間のアイデンティティは不変だと考えられているから、変化することは異常事態になる。
けれどたとえば、アイデンティティは不変でないのだとしたら。変化することが、当然なのだとしたら。
そしてアイデンティティを不変にしようとするのが、自尊心なのだとしたら。
六条御息所の変化する心。
人が羨ましい。憎らしい。うらめしい。
自分が失ったものを全て持っている葵上を連れて行くことで、自分に空いた穴を塞ごうとした。
けれど人をうらめしいと思うことで、自分自身が、自分の自尊心を傷つけたのだとは言えないだろうか。
不幸をあげつらうのではなく、そんなことはない自分だっていいところがいっぱいあるのだ、とその時少しでも御息所が思っていたら。
聡明な美人だった。だから光源氏に通われもした。全て失ったと思った心がその事実を見えなくし、不幸に目を向けた。
自尊心とは、自分が自分でいようとする働き。きっと、自分を尊いと言ってほしがっている。
そしてそれは、他の誰より自分自身に言われることを望んでいる。
般若の面は、よく言われる通り本当に怒りの形相だろうか。
六条御息所の心は、ふつふつと燃えたぎっているものの爆発した怒りではない。
きっと徐々に徐々に、他人をうらみ傷ついていく過程の成れの果てが般若。
自尊心の守りを失った心の成れの果て。
それを鬼と言うのかも知れない。
女性は神に近くありながら、反面、違うものも呼び込みやすい体であっただろうか。
それとも、よく言われるようにやはり感情の起伏が激しいのだろうか。
決して女性のアイデンティティが薄いのではない。おそらく揺らぎが起きやすいのだ。
月の満ち欠けのように、潮の満ち引きのように。神に近づく満月もあれば、真の闇に近づく新月もある。
闇の方へ行ったきりになった時、人はそれを鬼と呼ぶ。
六条御息所は葵上を連れて破れ車で行ったきり、もう戻っては来なかった。
※ 吉本ばなな『マリカのソファー/バリ夢日記』幻冬舎文庫、1997年