ノーノーノーライフ(No Noh,No Life)

能狂言のこと、伝統芸能のこと、観劇レポートなどをかきます。15歳ころ能楽に出逢う。多摩美術大学芸術学科卒。12年間伝統芸能の専用劇場に勤務。スペースオフィスというユニットで能狂言グッズなど作っています。Twitter@ofispace

葵上、六条御息所の鬼_3

(2の続き)

 

おそらく後場の御息所は、アイデンティティも人間の心も失って登場する。

それは御息所だろうか。それとも違う人なのか。

 

女性は変化する。それは、もとよりそういう性質を持っていたということだろうか。

御息所を呼び出した巫女。古来より神をその身体におろし、コンタクトを取る役割を担っていたのは巫女、女性だった。

月のものがある女性は「聖なるちから」があるため神にも近いとされ、また神と接触もできたのだろう。

だが神おろしとはなかなか恐ろしいものである。巫女が神を降ろす時、彼女は別の人格に「変化」している。

 

ちょうど『からくりからくさ』を読んだ頃だったろうか、吉本ばななの『マリカのソファー』という本で多重人格を知った。

マリカは幼い頃深く傷ついてそのため多重人格になっている。

読みながら、なぜアイデンティティが変化することはちょっと怖いのだろう、と思っていた。

巫女もやはり怖い。知っているはずの人から知らない誰かが出てくる。

その知っているはずの人とは、いったい誰のことなのだろう。

 

「変化する」ということは、何か確たる不変のもの、あるいは変わらないはずのものがあって、そこから違うものに成ること。

人間のアイデンティティは不変だと考えられているから、変化することは異常事態になる。

けれどたとえば、アイデンティティは不変でないのだとしたら。変化することが、当然なのだとしたら。

そしてアイデンティティを不変にしようとするのが、自尊心なのだとしたら。

 

 

六条御息所の変化する心。

人が羨ましい。憎らしい。うらめしい。

自分が失ったものを全て持っている葵上を連れて行くことで、自分に空いた穴を塞ごうとした。

 

けれど人をうらめしいと思うことで、自分自身が、自分の自尊心を傷つけたのだとは言えないだろうか。

不幸をあげつらうのではなく、そんなことはない自分だっていいところがいっぱいあるのだ、とその時少しでも御息所が思っていたら。

聡明な美人だった。だから光源氏に通われもした。全て失ったと思った心がその事実を見えなくし、不幸に目を向けた。

  

自尊心とは、自分が自分でいようとする働き。きっと、自分を尊いと言ってほしがっている。

そしてそれは、他の誰より自分自身に言われることを望んでいる。 

 

 

般若の面は、よく言われる通り本当に怒りの形相だろうか。 

六条御息所の心は、ふつふつと燃えたぎっているものの爆発した怒りではない。

きっと徐々に徐々に、他人をうらみ傷ついていく過程の成れの果てが般若。

自尊心の守りを失った心の成れの果て。

それを鬼と言うのかも知れない。

 

 

女性は神に近くありながら、反面、違うものも呼び込みやすい体であっただろうか。

それとも、よく言われるようにやはり感情の起伏が激しいのだろうか。

決して女性のアイデンティティが薄いのではない。おそらく揺らぎが起きやすいのだ。

月の満ち欠けのように、潮の満ち引きのように。神に近づく満月もあれば、真の闇に近づく新月もある。

闇の方へ行ったきりになった時、人はそれを鬼と呼ぶ。

六条御息所は葵上を連れて破れ車で行ったきり、もう戻っては来なかった。

 

 

 ※ 吉本ばなな『マリカのソファー/バリ夢日記幻冬舎文庫、1997年