土蜘蛛、哀しい存在が語りかけること_2
(1からの続き)
土蜘蛛の精は、頼光の家来たちと戦う時に、能舞台で蜘蛛の糸をまく。
この蜘蛛の糸は紙でできており、当たり前だが手作りで、シテがふわりと投げると、とても美しく弧を描いてさあっと開き、落ちる。
虫の方の蜘蛛の糸は、家の内では古い象徴や恐ろしさの助長となるが、太陽光の下で見るときらきらと光って、雨上がりなどは雫が付いて美しい。
そんなことも、きっと「土蜘蛛」を作った人たちは思っていたに違いない。
もちろん、そこに蝶や蛾や羽虫がかかることを、蜘蛛当人は期待しているのだが。
恐ろしさと、美しさは表裏一体でもある。
土蜘蛛が頼光の家来たちと戦い、とうとう倒され、そしてすべてが終わり去っていく時、私はどうしても土蜘蛛の後ろ姿を涙なしに見送ることができない。
何度観てもそうだった。土蜘蛛は、徹底的に悲しい。
およそ歴史とは、勝者のもの。敗者は、そこに名を記すことさえできず、あるいはいかにも悪そうに描かれて、引き立て役にしかならない。
彼らの心情や哲学は、二度と、語られることはない。
けれどおのうには残った。
頼光の家来のセリフに、こうある。「土も木も、わが大君の国なれば、いづくか鬼の、やどりなる」。
土も木も一切が大君、つまり天皇のものなのだから、この国のどこに鬼が住むところがあろうか。そう吠える。
愛する土や、木や、山は、いつどうして大君のものになったのか。
そんなこと知らない。知るわけがない。
山はもうずっと我々の住み慣れた場所で、これからもそのはずだった。
我々の平穏を脅かすのは、誰だ。
ちなみにここで家来が「鬼」と言っているのは土蜘蛛のことも指す。鬼とは排除されるべき存在についても言う。
様々なおそれの気持ち、恐怖、畏怖、わからないもの、不思議なもの、それらに伴う感情は、たしかに疲れる。
平穏な気持ちでいたいと願い、わからないそれに言葉で囲いをつけようとし、最終的には差別、排除に至ってしまう。
でも、相手の平穏は。土蜘蛛の平穏を先に破ったのは誰か。
自分の平穏だけを考えた結果、悲しみが作られていったのではないか。
蜘蛛の巣をはがした自分は、それを当然と思った。
おのうは常に、どちらの立場ではなく物語を書いていると思う。
誰にも思い入れない。だから感想も判断もすべてそれぞれの自由。
でも主人公を、頼光やその家来にせず、土蜘蛛にしていることが、観る人を思考へと誘い出す。
すべては相対で成り立つ。正しいも間違いもない、相手がいるから自分が認識できるということ。
土蜘蛛がいるから頼光は戦いもし、頼光がいるから土蜘蛛は恨みもする。
書き忘れた登場人物がいる。最初に出てくる、胡蝶という名の女性。病にふせる頼光に、薬を運ぶ役を仰せつかっている。
おかげんはどうですか、と頼光に尋ね、薬を置き、去る。ただそれだけで、彼女の素性については何も明かされず、なぜ出てきたのか不思議になる。
頼光の愛人、恋人、であるという見方もあるが、土蜘蛛側の刺客ではないかという見方もある。
実は、頼光の病が治らないのは、その胡蝶の運ぶ薬に微量の毒が盛られていたから…
いや不治の病で、そこには胡蝶にだけ弱音を吐く「人間らしい」頼光が見える…
頼光は土蜘蛛いがいにも大勢を排除してきたのだろうから、呪われて当然だ…
胡蝶は、土蜘蛛側だったのに、薬を運びそばに寄るうち、頼光を愛するようになった…
云々。
すべては、観客に任されている。是非ではない、心の動きをそのままに、土蜘蛛は蜘蛛の糸を投げかける。