物狂い_2
ここに書くのはただの思いつきです。
神様を「降ろす」と言うが、そうではなく本当は、神がかりとは、降ろしている人の心の奥の奥から出てきた「誰か」の声なのではないか、と思ったりする。
ユングの心理学では普遍的無意識が提唱された。
だがそれは認識としてはあるのだが、実際には触れることなど敵わないものだと思う。
その普遍的無意識の中に、ふだん触れることの敵わない神様のような、把握することも難しい壮大なものが潜んでいるのではないか、と考えてみる。
心が傷つく、という。傷がついたところから、肉体では、血が出る。
では心が傷ついたときに、深すぎる傷から出てくるものは何か。
心に空いた穴から、もっと深いところに潜む自分が出てきてしまってもおかしくないのではないか。
そしてそれを一気に深奥から引き上げて来れるのがイタコや巫女で、一般人はその深奥に触れれば、乗っ取られるか、狂気になるしかない。
あるいは、鬼に。
前掲書の「すべての制約からみずからを解放してしまう」とは、「自分という制約」から解放すること、単純に言うと魂そのものが前面に出てくることとも言えるのではないか。
私を私たらしめていること、それは人間社会で生きるには必要であるが、自然ということを思えば不自然であるのかもしれない。動物と人間とは思考する点において違う。
自然の一部として生きる動物と、自然の一部では成り得なくなった人間の差を思えば、私たちは皆不自然とも言える。
その不自然の部分とは、「自然の一部であった普遍的無意識」を全面的に覆ってしまった、人間の自我なのかもしれない。
そしてそれは仮面でもある。だからこそおのうの面という覆われた人間の部分に、また面の後ろに隠された誰かがいるという真実に、心を動かされるのではないだろうか。
話がそれたが、そのように「自然の自分」を身に宿らせて初めて、鬼や魔というこれも自然から発生した存在を、追い祓うことができるのではないか。
もちろん、不用意に触れればそちらの鬼や魔に引きずり込まれるのも事実なのだろう、同じフィールドに立ってしまえばお互い様で、排除することができる反面、襲うことも可能になる。
だからこそそれは危険を伴う特殊技術であり、猿楽師という職業技術者には行い得た技だったのだろう。
おのうとは、あらゆる方向から多角的に計算され考えられていたのか、それともこれも普遍的無意識のような人間の心の奥深くから勝手に出てきてこういう表現になったのか、考えれば考えるほどわからない。
ただひとつ知識のない者が何か言えるとすれば、おのうにはとてもとても古い思想がおそらくまだ混じっている、だからこそ、現代に息づく必要があるのではないかという希望があるということだろう。
心のことはこんなに人間の歴史の時間が経っていても、わからない。けれどもおのうが示唆してくれることはやはり大きいと思うのである。