観劇レポート 宝生流能楽公演「和の会」最終回・7/28能「七人猩々」
7月28日「和の会」最終公演におじゃました。台風直撃が心配される中、物販コーナーの売り子のお手伝いをする。
和の会は宝生宗家が年に1回、毎年続けたご自身のお能公演で、宗家にとってはいろいろとチャレンジできる機会でもあり、だが10年経った今年で最後となった。
売り子になって得られる特典は、見ず知らずのお能好きなお客さんと、すっとお話できることだ。
ふだん観客として能楽堂に行くときは、黙って行き、黙って舞台を観、黙って帰る。
お能は自分と向き合える時間でもあるから、もちろんそれはとてもいい時間である。
物販ブースで、グッズを核に置きつつ、その絵から演目の話を見知らぬ人と、したりする。
そして、どんな形であろうとそれがお能からきているのであれば「いいね!」「好き!」と思ってしまう皆さんの広がってゆくばかりの熱い熱を、じわじわと感じる。
好き、ということは恋愛だけでなくあらゆる事象において、強烈なエネルギーを発する。
だから嫌いもまたしかりで、反対のベクトルを向いてはいるがエネルギー値としては同じく高いと思う。
好き、嫌い、という感情がそもそも高いエネルギーのものなのだ。だからすごく心を割き、こだわるし、しつこくもなる。
そう、しつこい。
日本人は、本当にしつこいなあ…と改めて思ったのは、雅楽のことを少し知った時だった。
お能でも雅楽の曲名が謡に入っていたりするが、なんと雅楽は千年以上前から日本にある。具体的には聖徳太子の頃からある。
それを、同じ音楽を、ずっとやっているのだ。
もちろんシステムとして雅楽が保たれる状況にしてきたことは大きい。
だが根本的には、楽を聴いた人が興奮して夢中になり演奏して伝えて…聴いた人がまた夢中になり…を繰り返してきたのだと思う。
雅楽来し方の大陸ではもう失われている。
そして宮内庁の雅楽公演はいまも大人気である。ずっと、同じものをしつっこくやってきたのだ。
それは、日本人の「好き!」というエネルギー値が高いからなのか、なんかかんか言っても島国で狭い世界だからなのか、歴史がそうしてきたのか、わからないが、とにかくしつこいのだと私は結論した。
悪い意味ではない。そこにこだわる心が強くあるということ。
「好き!」を続けて千年以上。
そしてお能に対しても「好き!」を続けてきて650年以上経つ。
想像してみる。
猿楽師が追儺などを行う職能者であった頃、それはもしかしたら半分義務であったかもしれない。
季節がめぐるごとに鬼や魔はやってくる。それは職能者によって祓われなければならないし、儀式によってこの土地に清浄を取り戻さねばならない。
けれどそこから能楽になっていったとき、それは慣習ではなく大きな「好き!」エネルギーに変わった。
人々が「好き!」な和歌や物語の登場人物を登場させ、「好き!」な日本の風景を語り、そうして創作した能楽の物語もまた「好き!」の対象となっていく。
能楽が始まった頃の過去から変わらず通底し、能楽を支えているもの。
それは、きっと私が立った物販コーナーの目の前で、ロビーで、客席で、夢中になって話す人々の「お能が好き!」というエネルギーと同じものだとたしかに思う。
その「好き!」エネルギーが高い状態の人を(私は尊敬を込めて)オタクと呼ぶ。
過去から未来まできっとこの国には様々なジャンルの、様々な種類のオタクが生き生きと存在していくだろう。
そのことが、そのことこそが希望なのではないかと、ときどき思う。
和の会最後の演目は「七人猩々」だった。赤ら顔に赤髪の精霊、猩々が、七人も出てきた。
橋掛りを続々と、猩々が、まだ出る、まだ出る。
単純に大勢いるため迫力があるし、普段一人か二人のことが多い猩々が、ここに七人もいる! ということに私は興奮していた。
七人猩々は宝生流のみの演出ととある先生から聞いた。
能楽を何百年も続けていく中で、もちろん慣習にもなっていく。そうして時代時代で能楽師も演出に工夫を凝らし、考えながらやってきた。
七人の猩々はその証しだった。
宗家がご自分の意思でこの公演をやめるとき、きっと慣習にしないようにとの心が動いただろう。
それは期せずして儀式から能楽を作っていった猿楽師や、時代時代で試行錯誤してきた能楽師たちと同じ気持ちだったかも知れない。
現状に満足せず追い求める。彼らのその心は、義務ではなく、心からの「好き!」を追いかけようとする姿勢であり、時代を超えて重なるような気がした。
すべてが終わり、片付けて外へ出ると、台風はどこかへ行ってしまい生ぬるく暑い風が体を包んだ。
災厄は降ってくる、けれどこうして勝手に回避するときもあるし、残念ながら直撃することもある。
それをも超えて「好き!」を追い求めることができれば、それが誰にとっても幸せなことなのかもしれないと、今日一瞬出会っただけのオタクの人々の喜びにあふれた笑顔を思い出しながら、思った。