踏む_2
考えてみれば、何もない所で「踏む」行為を動物はしない。動物が踏むのは、獲物を殺す時だろう。
立ち上がり二足歩行になり、足と脳が直通したことも、人間の踏む行為と関係がある気がするのだが、脳科学の分野は蚊帳の外なので言及のみにする。
食べるため、生きるために、動物たちは、物理的に相手を踏みつけて殺す。
人は、何もないところでも足を踏む。
盆踊りで、無のトランス状態になったことがあった。
それまでは踊って一周したら従姉妹とかき氷を食べに行くような適当さでやっていたが、大学生になった私はその日初めて1時間近く踊っていた。時計がなかったので正確ではないが。
隣には、祖母の妹であるおばがいて、おばはとても盆踊りが上手だった。祖母とおばは皆から盆踊りではピカイチと言われていた(自賛かもしれない)。
逆隣には、今年家族を亡くした新盆の男性が、男性の父親だろうおじいさんの遺影をしょって踊る。
おばの盆踊りをずっと真似して合わせていたら、手は添え物でしかなく、すべては足踏みで成っていることがわかった。
手は、ついてくるままに胸から顔の前あたりで足に合わせてゆらゆらとさせる。意志はない。
おばの正しい姿勢、足踏み。膝を少し曲げたまま、右右、左左、左、そして踏み込み、裏を向き、右、左、またひるがえって表を向き。
小さい頃、祖母が私たちに家で盆踊りを教えてくれた、その時たしか、足を見んさい、と言ったのを思い出す。足踏みが大事なんよ。祖母も膝を少し曲げた。
永遠に続く足踏みの反復運動。少しずつ進む人々の輪の回転運動。重心は、足と、土にある。
そのすべてがトランスに導くための装置だったと気づいた。
そして永遠に続けられると思えたほど、その踊りには体のどこにも無理がなかった。
提灯は不思議な蛍光オレンジに光り出し、周りの人々の生きた気配は消えた。おばたちはゆらゆらと動く黒い影となった。
その場には、見えなかったが何か別の気配が満ちていた。
それは踊りから舞へ、自力の盆踊りから、他力、つまり何かわからないちからで体が勝手に動き出した瞬間でもあった。
小さい子は、時々、感情が爆発して、教わったわけでもないのに足をどすどす踏んで抵抗していることがある。
望みがかなわない時、そのしぐさは出る。いやだという叫び声と一緒に。まるで、そのいやだの原因をぐちゃぐちゃに踏みつぶそうとするように。
どんないきものも永遠に生きることはできず、どんなに愛しい人も、いつか死んで別れなければならないし、別れ続けてきた。
わかっていても、望みは消えず、願いはかなわないから、人は、踏むのだろうか。
おのうのシテも、かなわぬ望みを抱えたままの精霊や鬼や怨霊で、ひとしきり舞を舞い、足を踏む。
死んでも、お願いだから出てきてよ、と足を踏み、土を踏み、現実ではないどこかで一緒に舞いたかったのは、縄文人もシテも現代人も変わらない気がする。
そして踏むことは、違う次元へ行くのに、あるべき要素なのかもしれない。
この、あらゆる生きることの悲しみから逃れるため。
生からも、そして死からも離れて、自分の望みからも離れて、違う世界へ行くための。