ノーノーノーライフ(No Noh,No Life)

能狂言のこと、伝統芸能のこと、観劇レポートなどをかきます。15歳ころ能楽に出逢う。多摩美術大学芸術学科卒。12年間伝統芸能の専用劇場に勤務。スペースオフィスというユニットで能狂言グッズなど作っています。Twitter@ofispace

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(1の続き)

 

顔が隠れることによって、違う裏の顔が出てくる。

本来の顔を隠す女性の化粧について、以下は妄想及び想像。

 

高貴な女性たちの習慣であった白塗り、お歯黒、眉書き…これらは本来の自分の顔を消す。

そうして、一種の「貴族アイコン」とも言えるような、別の顔になる。

(昨晩放送された高畑勲監督のアニメーション映画「かぐや姫」では、化粧は、個を消すものであった。まるで人形のよう、「私」がいてもいなくても同じ、その象徴。)

もともと化粧は、儀式などで用いられていたと思うが、お守りの類でもあったのではないかと思う。

化粧をすることで、1枚ヴェールをまとうように、自分自身を危険な世界にさらさなくて済む。

あるいは、女性は子どもを産めるため魔力が強いとされていたから、そのちからを不用意に出さないように、封じの意味もあったのかもしれない。

そのうち、おそらく女性がおしろいをしている方がいい、俗っぽい理由(結婚に有利だとか、美しいとか、百難を隠すとか)が通説となり、貴族社会の象徴となり。

やがて「女子」という枠にはめ込まれる、呪いともなった。

 

いま、現代の女子が化粧をして外出するときの顔は、いったい、裏の、誰の顔だろう。

 

 

歴史家の網野善彦氏の著書の中に、「扇の骨の間から見る」というトピックがある。

網野氏は絵巻で歴史研究をされていた方だ。

ここでは、誰かの死や処刑や芸、そういったもの、つまり穢れを見る時に、扇で顔を隠している男性が絵巻によく描かれており、そのしぐさの意味するところを考察されている。

網野氏の結論を言うと、扇は、外から悪霊や穢れが自らに及ぶのを防ぐとともに、内から発するそれをも防いだ道具であった。

つまり、扇で顔を隠して見ることで、一時的に別世界の存在となり得たのではないか、としている。

 

扇の呪力については後日触れたい。

顔を扇で隠して見る行為、それは扇によって、一種の「バリア機能」とでも言うような状態が発生していた、とは考えられないだろうか。

自分自身の最たる象徴である顔。それを扇で隠すと、扇の呪力によりバリア空間が出現し、自分の身を守ってくれる。

それは化粧の、1枚ヴェールを被る感覚ともきっと近い。

あるいは、自分の中の危険なちからを、外に出さない、封じともなった。つまり、生身の、カバーの何もないむき出しの自分が出てしまう危険から守っていた。

 

それらの機能が凝縮しているのが、機能的な能面、おのうの面かもしれないと思う。

着物と面により、能楽師は別世界の存在となる。

そこで、しかし逆に、内なる危険な自分が出てこないように、抑えもしている、と。

 

 

世界と、自分との間に降りてくる、1枚の幕。

それはおのうで言うシテの、着物と面で作られる。

またあるいは、鏡の間と、能舞台へ続く橋掛りの間に降りている、五色幕でもあるかもしれない。 

 

 

網野善彦『異形の王権』平凡社、1993年 「異形の風景」より