3.11と能楽について(2)
友人と2人で、石巻を訪れたことがあった。あの日からは4年半が経過していた。
震災の直後、被災地を訪問する人がいたが、私はとんでもなかった。
体力もなくヘタレで現地の困っている人の役に立てない。だがそれは表面上の理由で、未曾有の、と言われるそれに対峙する勇気などとうていなかった。
役に立ちにボランティア活動に行った方にはほんとうに頭が下がる。
できることと、できないことを、のろのろとではあるが、あの日から身にしみて考えるようになった気がする。
反対に、新しく出来ている建物などもあったが、それはやはりうすっぺらいものにしか見えなかった。
学校まで届いてしまった津波、その学校の手前の、家がならんでいたはずの場所は更地になり、貝殻や食器の小さくなった白い破片が茶色の土に混じっていた。
たしかにあったはずの生活の残り香。
津波に耐え残った松の木は、哀しく無言だった。
うすいもやに包まれていたようにしか、石巻を思い出せない。
その時、友人と私は出会って数年経ち、以来はじめての喧嘩をしていた。理由は、まったく覚えていない。
気づいた時には、石巻の高台公園で、別行動を取っていた。
ごく最近、友人と会ってその話をしたが、彼女は喧嘩したことすら忘れている。
とにかく2人ともぎすぎすし、どうやって仲良くしていたかもわからなくなり、移動する車の中でも、会話はすれ違っていた。
重たかった。いい天気で、晴れていて、日差しは夏の、風が涼しい初秋だった。それなのに私たちは重たかった。
あれはなんだったのか。
結局、帰りの車の中で、夜道を走りながら(運転は友人だった)夕飯をどこで食べようかという話をしながらやっと、お互いにおかしかったことを認め、あやまった。
石巻からは離れ、内陸に向かっていた時だった。
あの日だけではなく、ここは昔から大地震の起きる島。
地震だけではない、かつては様々な天災、飢饉、病がこの島に生きる人たちをおびやかした。
なるべくこの世に長いこと留まり、楽しく生きたいと願った人々は、神事芸能を行い、大いなるちからに、様々な方法で、祈った。
おのう(能楽)は、その延長で作られてきた当時では新しい芸能だった。
神降ろしする手法と同様に、主人公(シテ)を勤める能楽師は、面をかけ「その存在に成る」ことを基とする。
おのうの謡には、「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という有名な仏教用語が登場する。
草や木、また国土までも、ことごとくみな、成仏する、という意。
むしろ、おのう全体にはこの思想が通底しているから、草木の精霊が主人公だったりする。
梅、藤、杜若、老松、遊行柳、西行桜、芭蕉、これらは各曲のタイトルであり、シテはそれぞれの草木の精霊。
以前、詳しいお坊さんに聞いたが、大陸ではこの「草木〜」の語の発祥は見つからず、日本独自の仏教用語かも知れないらしい、とのことだった。
遠くインドから大地を横切り上乗せされてきたはずの仏教にはなかったのに、この島にたどり来て、「草木」さらに「国土」までもが成仏することをも確信し、祈るのはなぜなのか。
大地を揺るがすあのちからの理由、それは、ほんとうに海底プレートが動いている、だけなのか。
そんなことで収まらない気がするのは私の妄想なのか。
津波は、自然のちからの、まっ黒いほう。
ふだん自然は、まっ白い、美しいちからのほうしか、私たちに見せていない。
でも昔の人は、まっ黒いほうも知っていて、津波のアウトラインを石碑にきちんと記録さえしてくれていた。
それなのに、その石碑はたしか震災後に見つけられ、話題となっていた。
そういう知恵も、技も、すべて昔へ置いてきてしまった。
大いなるちからは、土の重さ、空気の重さとしても表れると、石巻で知る。
もちろん、いい影響を与えるものばかりではないし、固定された社などの場所にいるだけではない。
それらはだいたい神様と呼ばれていたものかもしれないけれど、そう単純なことではなく、気配として空気に土に溶けたりして、いまも人間に作用する。
先祖はその土地の神となるという考えも、しごく納得する。
まっ黒いほうの自然を知っている、それは、石巻で重たい空気にのまれることしかできなかった身としては、心底うらやましいことに思えた。